こっちの常識は本当に常識なのか
1991年12月、そのレービン氏に急遽指示され、〈ソ連がその存在を停止する〉との一報を日向寺氏が読まされた数日後、ソ連邦は消滅。その後の物価高騰や給料の遅配、また新政府が電波の一部をオウム真理教に売却していた事実までが発覚する中、2017年5月のネット放送停止までを見届けた日向寺氏は言う。〈ニュースそのものはロシアの立場を伝えるものだった。これは誰かがしなければならない大切な仕事だと考えている〉と。
「彼は本当に誠実な人で、自分はそういう係なんだと。それが何らかの自己矛盾を解消するために捻り出した理屈なんだろうと思います。
もちろん外国語の番組をわざわざ作るのは宣伝目的以外の何物でもなく、西側の常識にどっぷり浸かった私達には信じがたいことが、そこでは罷り通ってもいる。でもこっちの常識が本当に常識なのかと、私は昔から何事も疑ってかかる人間で、だから今の仕事に就いたんですけどね。実際に取材すると、どうしても当時の葛藤や挫折の話になり、それがロシア語習得に関する私自身の挫折と結果的に重なっていくんです(笑)」
その途中でやめてしまったロシア語教室の創始者、東一夫氏や、旧体制末期に日向寺氏の番組に出演した川村かおり氏のこと。また先述の蒲生氏や佐藤優氏といったリスナーからも話を聞き、「わかったことだけを書く」記者精神に貫かれた本書は、かの国に対する百者百様の温度や暮らしぶり、さらに時々の流行や文化をイデオロギー以上に伝え、ソ連=左といった一面的な考えにいかに囚われていたか、改めて気づかされる。
「体制に認められず発禁になったラブソングなんかが、レントゲンフィルムを再利用した〈肋骨レコード〉やカセットで出回って大ヒットしたり、庶民も強かというか、二重基準が存在するんです。
規制が緩んだ後になって、そうしたサブカルを届けるのがモスクワ放送の副次的役割になっていて、蒲生さんみたいに『ソ連歌謡』という本を出す人までいる。ここには理想を追いかけて挫折して、それでも後悔はしたくないという人が次々に出てきますけど、どんな人生にも意味がないなんてことは絶対にないんだなと、今はつくづく思います」
例えば1991年8月の政変を報じた山口氏は状況次第で二転三転する当局の原稿を読みながら、〈聞かれた方が情報を取捨選択してください、という気持ちでした〉と語り、ソ連社会にしても〈極端に言われていることは、どちらも正しくない〉と言う。誰にでも立場や主張はある以上、情報に対する態度はその一言に尽きるともいえ、たとえバイアスはかかろうと、それを前提に判断する強かさが、今こそ求められている気がしてならない。
【プロフィール】
青島顕(あおしま・けん)/1966年静岡生まれ、東京育ち。1991年に早稲田大学法学部を卒業後、毎日新聞社に入社。北九州の整理部や佐賀支局、福岡総局等を経て、現在は東京社会部で主にメディアのあり方を取材。共著書に『徹底検証 安倍政治』『記者のための裁判記録閲覧ハンドブック』。今年本作で第21回開高健ノンフィクション賞を受賞。「ロシア語は某大学のロシア語学科が合わなくて受験をやり直したり、福岡や都内で中途半端に習ったり、挫折の連続です」。169cm、72kg、A型。
構成/橋本紀子 撮影/朝岡吾郎
※週刊ポスト2023年12月22日号