没後30年となった今太閣・田中角栄。毀誉褒貶はあれど、国民の記憶にいまも残り続ける「角さん」の姿は、現代の為政者にこそ求められるものかもしれない。自らを「田中角栄の最後の弟子」と称する、衆議院議員の石破茂氏が、当時の田中角栄について語った。
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私は自分を「田中角栄の最後の弟子」だと思っています。先生には多くのことを教わりましたが、今も肝に銘じているのは、「握った手の数、歩いた家の数しか票は出ない。余計なことは考えずにともかく歩け」という言葉です。初出馬した選挙の時、地域の支援者の方々と一緒に今日は200軒、次の日は300軒とひたすら選挙区を歩き回りました。5万4000軒歩いて、獲得したのは5万6534票。まさに先生の言葉通りの結果でした。
〈石破氏の父・二朗氏は田中角栄の盟友で、鳥取県知事、参院議員、自治大臣を歴任。1981年に亡くなると角栄が葬儀委員長を務めた。三井銀行のサラリーマンだった石破氏は、父の死後、角栄に背中を押されて政治家になることを決めた〉
葬儀を終え御礼の挨拶に行くと、角栄先生は、「鳥取の葬式に来てくれた2500人全員に、名刺持参で会葬御礼に回れ。それが選挙の基本だ」と言うんです。当時私は24歳の銀行員。国会議員になる器でもないし、参院選に出るには被選挙権もありません。そう申し上げると、角栄先生が机をバーンと叩き、「誰が参議院に出ろって言った。君は衆議院に出るんだ。いいか、よく聞け。政治家ほど面白い仕事はないぞ。日本で起こる全てのことはこの目白で決めるんだ!」と仰る。24歳の銀行員と、闇将軍の田中角栄が1対1ですよ。震えましたね(笑)。そこで道が決まりました。
〈石破氏は銀行を退職、田中派の派閥秘書として政治修業を積み、1986年衆院選に出馬した〉
選挙に出るため暇乞いに目白の田中邸を訪ねると角栄先生は非常に厳しいことを言われた。
「お前みたいなあんちゃんがなぜ自民党から立候補できるのか。1億8000万円安いからだ」と。その意を問うと「(地元の有権者は)石破茂は知らなくても親父さんのことは知っている。あの石破二朗の倅ならば、そんなに変なやつじゃないだろうと安心感もある。他の候補ならその安心感を得るまでに約1億8000万円かかるが、お前はそれが要らないから出られるんだ」と言うんですね。