ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 最終回」をお届けする(第1404回)。
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前回に引き続いて、労作『青島から来た兵士たち─第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』(瀬戸武彦著 同学社刊)より、解放後のドイツ人俘虜(捕虜)の動向について紹介しよう。
日本にバームクーヘンという菓子を定着させたのはカール・ユーハイムだが、同じく捕虜のハインリヒ・フロインドリーブは解放後、愛知県の敷島製パンに職人として招かれ製パン技術を指導し、後に独立して神戸で開業した。また、ドイツ本国でマイスターだったアウグスト・ローマイヤーは、東京の帝国ホテルに招かれハム・ソーセージの作り方を指導し後に独立した。「ロースハム」という言葉は彼が定着させた、と伝えられる。
また、日本に「ホットドッグ」を広めたのは同じく捕虜出身の職人ヘルマン・ヴォルシュケで、彼はカール・ユーハイムとは友人だったようだ。どうも食べ物の話ばかりになってしまったが、彼ら“青島から来た兵士たち”は、戦争が起こる可能性は低いと考えていた場所で急遽徴兵された一般人が多かったので、こういう結果になった。
もちろん、芸術や学術部門など文化面で貢献した人々もいる。パウル・エンゲルは「バルトの楽園」板東俘虜収容所で音楽プロデューサーの役割を果たし、地元住民の西洋楽器演奏の習得にも力を尽くした。ジークフリート・ベルリーナー、ヘルマン・ボーナー、アレクサンダー・シュパン、といった人々は解放後も日本に残り、それぞれ東京帝国大学農学部、大阪外語専門学校、九州帝国大学で教鞭を執った。
青島は港町で神戸に似た地形だが、広大な中国大陸には他にも良港となる地はたくさんあるので、ちょうど日本の横浜のように寂れた場所だった。しかし、そういう土地こそ一から都市計画を立てることができる。ドイツは九十九年間の租借権を獲得すると、上下水道などを整備し美しい街を築いていた。そして大戦終了後の一九一九年(大正8)のベルサイユ条約によりドイツの権益を日本が引き継いだため、一時青島には四万人の日本人が住んでいた。
若い人には馴染みが無いかもしれないが、戦後日本で初めてアメリカの音楽雑誌『ビルボード』誌のランキングで一位となり(1963年)、しかも長期間トップの座を独占した『上を向いて歩こう』(なぜか『スキヤキ』とも呼ばれた。歌坂本九)を作曲した中村八大(1931~92)は、戦前の青島生まれである。父親は青島の日本人学校で校長を務めていたという。また、クロサワ映画の常連でもあった名優三船敏郎(1920~97)もそうだ。彼は、青島の三船写真館の息子だった。
いまではあまり使われないが、コロニアル(文化)という言葉がある。主にアジアの国々が欧米列強の植民地だった時代、欧米の人々が現地に建てた建物などが独特な味わいを持っていることを指す。建物に限らないが、一言で言えば現地文化と欧米文化の融合である。現在、この独特な雰囲気が実感としてはわかりにくくなっているが、そういう独特な感性を持つ人間は戦前の日本にもいた。現代であえて似た例を探せば帰国子女かもしれないが、やはりちょっと違う。
たとえば、その後三船一家も移住した満洲では内地では華族か大富豪でなければ不可能な、暖炉のある広い家に住み使用人を何人も雇って暮らすような生活が中流でもできた。また、そうした「外地」では日本人以外との交流も少なくなく、実際に会話するから外国語にも堪能になる。映画俳優としては東宝で三船の後輩であり日本ミュージカル俳優の草分けだった宝田明(1934~2022)も満洲育ちだった。
ここで、青島要塞攻略戦以降の第一次世界大戦の経過と結果について触れておこう。
結果的に、大戦は青島要塞攻略戦終了後も約四年続いた。きっかけは、すでに述べたように一九一四年(大正3)六月二十八日である。ボスニアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビアの一青年に暗殺されたため、まずオーストリアが一か月後の七月二十八日にセルビアに対して宣戦布告すると、セルビアを後援していたロシアが総動員令を下し臨戦態勢を整えた。ドイツよ、オーストリアに味方して参戦するなよ、という牽制である。
しかし、おとなしく引き下がるドイツでは無い。ドイツは八月一日にロシアに宣戦布告し、八月四日にはフランスをも叩くため最短攻撃ルートのベルギーへ侵入した。しかしベルギーは中立国で、この中立は尊重するとの合意があったのでイギリスはこの合意無視を咎める形でドイツに宣戦布告した。そして日本が「日英同盟のよしみ」で実際は膠州湾をドイツから奪い、これを「人質」にして満洲の利権を確保するため参戦したのは、これまで述べてきたとおりだ。そして十一月七日、青島要塞攻略戦に勝利した。しかし、それは東洋あるいは南洋の島々からドイツの勢力が駆逐されたに過ぎず、戦争はまだまだ続いたのである。