言葉遣いが人に与える印象に大きな影響を及ぼすことは言うまでもない。大人力について日々考察するコラムニスト・石原壮一郎氏がレポートする。
* * *
日本語は前置きを付けながらの「もって回った言い方」が得意です。それは日本語の長所でもありますが、短所になることも少なくありません。
大きな長所であり素晴らしい美徳だと言えるのは、ビジネスの場面で重要な役割を果たしている「クッション言葉」。そのまま伝えるときつい印象を与えそうなときは、前置きとしてクッション言葉を添えると、一気にやわらかい印象になります。
たとえば、頼みごとをする場面での「お忙しいところ恐縮ですが」や「お手数おかけいたしますが」、断わる場面での「誠に申し訳ありませんが」や「せっかくのお誘いですが」などが代表的な例。ものを尋ねたり手伝いを申し出たりするときの「差し支えなければ」や、反論するときの「お言葉を返すようですが」も、よく使われます。
用件を伝えるだけなら、クッション言葉は必要ありません。しかし、前置きなしに「これをやってください」と頼んだら、相手はムッしてOKしてもらえることもOKしてもらえなくなるでしょう。クッション言葉を駆使することで、相手への敬意や気遣いが伝わり、いい印象を与えたまま物事を円滑に進めることができます。
どんな前置きでもプラスの効果があるとは限りません。「それ、いる?」と思わされる前置きも、しばしば見たり聞いたりします。とくに遭遇しがちなのが、ややこしい事件や芸能人のスキャンダルがあったとき。識者と呼ばれる人や同じ業界にいる人が、そのことについてコメントする場面では、以下のような前置きがよく使われます。
「まだ何があったのか明らかになってはいませんが」
「事実だとしたら許しがたい行為ですけど」
「本当のところは当事者しかわかりませんが」
そう言いながら、話題の人物が「黒」である前提で意見が述べられます。本来は、よくわからないことに対して軽々しく語ることなんてできません。万が一濡れ衣だった場合は、いわれのないことで相手を侮辱したことになります。
こういう前置きを付けるのは、ひとえに責任逃れがしたいから。あとから「決めつけたわけじゃない」「あくまで仮定の話だった」と言える余地を残すために、あらかじめ予防線を張っています。
立場や状況で、よくわからない状況でも何かコメントせざるを得ないことはあるでしょう。事情はわかりますが、聞いている側としては中途半端に自分を守ろうとしている姿勢に、うっとうしさやズルさのようなものを感じずにはいられません。
また、賛否が分かれたり物議を醸したりしている事柄に意見を言うときには、次のような前置きが使われがち。
「いろんな考え方があるとは思いますが」
「感じ方は人それぞれですけど」
「あくまで個人的な意見ですけど」
どれも当然の大前提であり、あらためて考えると、わざわざ言う必要はありません。これらの前置きは、自分とは違う意見を持つ人たちに対して、「だから怒らないでね」と先手を打つためのもの。さっきの例と同じように、自分を守るための予防線です。相手への気づかいがベースにある「クッション言葉」とは、似て非なるものと言えるでしょう。
「よくわからないけど」と前置きを付ければ何を言ってもいいわけではないし、「感じ方は人それぞれ」と前置きを付けても、怒る人やいちゃもんを付けてくる人はいます。実際のところ、「耳障りだな」とか「ああ、この人は腰が引けてるな」という印象を与えるだけで、とくに効能はないし予防線を張ったことにもなりません。