1966年、熊本のキャバレーで一人の少女がステージに立った。“昭和の歌姫”八代亜紀さんが誕生した瞬間の目撃者が「あの日」を語る──。
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八代亜紀が初めて立ったステージは、八代市の老舗キャバレーだった。
「引っ込み思案の亜紀ちゃんは、度胸試しのつもりでうちのオーディションを受けたそうです」
「キャバレーニュー白馬」創業者の妻で、今も大ママとして時おり店に顔を出す西田フサエさん(97)は、当時を懐かしそうに振り返った。
厳格な父に隠れ、ひそかに歌手を夢見た15歳の八代は、中学卒業後にバスガイドとして働き始めた。人前で話したり歌うことの苦手意識が克服できずにいたが、意を決し、友人に紹介された「キャバレー白馬」(当時)のオーディションに年齢を18歳と偽り応募した。
「生バンドを従えてジャズナンバーを歌唱した姿は、初舞台とは思えない堂々としたもの。無関心だったお客様が徐々に彼女の歌声に心を奪われ、やがて大勢がダンスフロアで踊り始めたのには驚きました」(フサエさん)
こうして翌日には15歳の専属歌手が誕生する。連日、万雷の拍手とアンコールの声が絶えなかったという。まもなく百寿を迎えようとする大ママの脳裏に、その光景はしっかり焼き付いている。
ところが、わずか3日で父に発覚。激怒する父に歌手の夢を猛反対された八代は、それからまもなくとなる1966年8月29日、16歳の誕生日に家出同然で上京した。
現在、「キャバレーニュー白馬」の代表を務める池田義信氏は、八代と同じ中学の後輩にあたる。1つ年下で、在学中は部活動で顔を合わせる程度。会話を交わすことはなかったという。
「私が30歳の頃、亜紀ちゃんが店に来て。大人になって初めてお会いしたので『いらっしゃい、先輩』と言うと、『先輩だなんて、やめて~』とチャーミングに返し、ハグしてくれました。誰にも分け隔てなく天真爛漫で、いつもその場を明るくする人でした」(池田氏)
大スターとなっても、帰郷する度に同店に挨拶に訪れる八代の郷土愛に、池田氏は感嘆している。
「公演の度に『キャバレーニュー白馬』の話をしてくれたそうです。『どうして?』と聞くと『ここが私の原点だからよ』。こんなスターはいない。八代市や熊本県のPRはもちろん、天災が起きると何があっても駆けつけてくれた。私たちにとって彼女は宝であり、身内のような存在です」(池田氏)
地元を愛し、地元に愛された八代の歌声は、これからも人々の胸を打ち、心を躍らせるだろう。
取材・文/小野雅彦
※週刊ポスト2024年2月23日号