昨年、フジテレビを定年退職した元アナウンサーの阿部知代さん(60)。現在は退職時に所属していた報道局で、引き続き言葉や研修に関する業務に従事しているというが、バブル期(1986年)に入社した当時のフジテレビは今とはまた違った雰囲気だったという。「黄金時代」と言われたフジテレビの華やかな雰囲気と、そうしたなか築いたアナウンサーとしてのキャリアについて振り返ってもらった。【全3回の第2回。第1回から読む】
上智大学文学部新聞学科に通っていた阿部さん。就職活動ではマスコミ業界を志し、フジテレビの門を叩いた。入社当時のフジテレビは「毎日がお祭り状態という言葉がピッタリだった」と懐かしそうに語る。
「1977年のダッカ日航機ハイジャック事件をテレビで見て、映像の力に釘付けになりました。それから、映像の仕事、報道の仕事を志すようになりました。新聞社や通信社も考えましたが、当時の就職活動ではテレビ局のアナウンサー試験がいちばん早かったんです。最初に受けた日本テレビは一次試験落ち、次のテレビ朝日は三次落ち。3社目のフジテレビで内定をいただくことができました。当時のフジテレビは視聴率三冠王が当たり前、毎日がお祭りのように賑やかで、活気に満ちていました」
そんななか、入社半年で憧れの報道番組に起用されることに──。ただ、阿部さんは「嬉しかった反面、恐れ多いと感じていた」と言う。
「入社半年で平日夜のニュース番組『ニュース工場一本勝負!』に起用され、海外特派員を長年勤めた国際派キャスターの山川千秋さんとコンビを組むことになりました。番組の内容は、原稿を読むだけではなく、ひとつのニュースを深く掘り下げるというもの。光栄でしたが、自分に務まるかと不安でした。
日中は取材で、夜は山川さんやゲストとスタジオに。ですが、大きなテーマについて、たった2~3時間取材したくらいの新人が何か喋れるはずもありません。知識も経験もないのですから。『それではCMです』しか言えなかった日もありました」