世界のエンタメ界を席巻する日本の漫画家たちが、口を揃えて「憧れの存在」と語るのが、鳥山明さんだった。一般の読者はもちろん、同業者の心までつかんで離さなかった理由には、鳥山さんが持ち続けた「矜持」があった。【前後編の前編。後編を読む】
アラレちゃんと則巻千兵衛・みどり夫妻の家族が描かれ、2匹のガッちゃんやオボッチャマン、スッパマン、ニコチャン大王ら個性豊かなキャラクターが一堂に会した集合イラストの余白に、でかでかとこう書かれていた。
「バイちゃ!!」
これは1984年に『週刊少年ジャンプ』(9月10日号)に掲載された漫画『Dr.スランプ』最終回のワンシーンだ。それから40年。天才漫画家として世界中から尊敬の念を集めた作者は、周囲にサヨナラを告げる暇もなく、早すぎる最期を迎えた。
3月1日、漫画、アニメ界に偉大な功績を残した鳥山明さんが、急性硬膜下血腫のため68才でこの世を去った。生前、「自身のイメージがついてしまうのは嫌」とメディアとは距離を取っていた鳥山さん。描き出したキャラクターは世界中に知れ渡っていても、彼自身の素顔はあまり知られていない。『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』を生み出した稀代の漫画家は、どんな少年時代を送ったのか。
「愛知県生まれの鳥山先生は建材会社に勤務する父とパート勤めの母、妹の4人家族でした。幼い頃から絵を描くのが好きで、自分が欲しいものを描写するのを楽しむ少年でした。ディズニーアニメにヒントを得て、デフォルメした動物を描くのも好きだったそうです。鳥山先生の特徴でもあった緻密な描き込みとデフォルメの素地は、幼少期に培われたのでしょう」(漫画誌関係者)
グラフィックデザイナーを志して愛知県立起工業高校(現・県立一宮起工科高)に進学。卒業後の1974年にデザイナーとして広告代理店に就職するも、残業ばかりの激務で約3年で退職した。転機は1978年だった。
「仕事を辞めてこれからどうしようかと思案していたとき、ふらっと立ち寄った喫茶店で少年漫画誌をめくったところ、賞金10万円で新人賞を募集しているのを目にしました。そして10万円欲しさに漫画を描き始めたのです。受賞は逃したものの集英社の編集者の目に留まり、1978年に『週刊少年ジャンプ』に掲載された読み切り作品『ワンダーアイランド』で漫画家デビューしました」(前出・漫画誌関係者)
デビュー作から大ヒットとはいかなかったが試行錯誤を重ね、「女の子を主人公にしたら」という編集者の意見を取り入れて生まれたのが、『Dr.スランプ』だった。1980年に連載が始まると瞬く間に子供たちの間で話題に。「んちゃ」「うほほーい」など数々の流行語が生まれた。