いまや100才を超えて生きる人が珍しくなくなり、「どう死ぬか」を一人ひとりが考える時代に突入している。最期を迎えるときの一大テーマである「延命」について、著名人たちはどう考えているのか? 医師と作家という2つの顔を持つ3氏が、それぞれの見解を語る。【全4回の第3回。第1回を読む】
まず、1人目は医師で作家の久坂部羊さんだ。久坂部さんは、「延命治療には非常に悲惨な結果もある」と指摘する。
「やはり死にたくはないから、治る可能性があれば延命治療を受けます。ただし、可能性が高くないと判断したら受けません。
若い頃は外科医として、可能な範囲の治療を最後まで患者に続けていました。しかしその結果、出血やむくみ、黄疸が出て、生きたままの人体が腐るようになっても治療を止められず、悲惨な状態になった患者をたくさん見ました。延命治療を施すと人生の最期にふさわしくない凄惨な死を迎えるケースが多く、本人と家族が悔いを残さないためにも無駄な治療はやるべきではありません。無理やり食べさせ、点滴し、酸素マスクをして数日や1週間寿命が延びても、本人が苦しむだけなのです。
多くの人がイメージする延命治療は、死を少しでも遠ざけ、あわよくば回避しようとする試みです。でもそれは無理な相談で、多くの患者は延命治療によって苦しみます。特に高齢者はがんや肺炎、糖尿病や心臓病などの最後の段階のあらゆる医療が、望ましくない延命治療になるリスクが高い。
高齢で寿命が近づいた患者に対して医療は“無力”です。それは当然の話ですが、多くの人は延命治療に幻想に近い期待を抱いて現実を見ようとしません。一部の医者も自分が無力であることを認めず、“やったふり”の医療をする。延命治療への過大な期待を捨てることがまず肝心です。
私の父は認知症で寝たきりでしたが延命治療を望まず、自宅で看取りました。母も祖父母もみな家で死を迎えています。その経験上、過度な医療を受けずに死ぬことが最も穏やかで好ましい死につながると確信しているので、私自身も最期に無駄な治療を受けるつもりはありません」(久坂部さん)
医療者の常識では無理な延命治療=不幸
2人目は湘南東部総合病院外科医で作家の中山祐次郎さんだ。中山さんは、無理な延命治療は希望しないという。
「そもそも『延命治療』は正式な医学用語ではありません。狭義には、“治る見込みがなく、病状が悪化して身体への負担が大きい医療”のことで、具体的には呼吸や心臓が止まったときに行う『心臓マッサージ』『気管内挿管と人工呼吸器接続』『強心剤の投与』などを指します。要は“無理な蘇生行為”のことですね。
私はそうした延命治療を希望しません。苦痛が激しいうえに実際の延命効果はそれほどなく、特に高齢の持病持ちのかたが急変した際、上記の延命治療をしても本人のメリットは1つもないからです。命は助かっても意識は戻らず苦痛を強いられるなど、かなり厳しい未来が待っています。
医療者の常識でも、狭義の延命は“患者を不幸せにする医療”とされますが、家族が『1秒でも長く生きてほしい』と延命を望むケースは後を絶ちません。心情は理解しますが本人が苦しむばかりなので、『もう延命治療はしなくていいですね』と医師の方から家族に伝えることもあります。
一方で延命治療にはもう少し広い意味もあります。たとえば、治癒がほぼ見込めないステージIVのがん患者に対し、手術や抗がん剤治療を行うことは広義の延命治療に当たります。私は大腸がんの専門医ですが、大腸がんの末期は肝臓や肺などに転移して体力を失い体調が悪化します。手術は難しく抗がん剤治療になりますが、副作用がある苦しい治療をどこまで頑張って続けるのか。
そうした判断はケースバイケースであり、広義の延命治療をやめるタイミングは本人や家族、主治医などが話し合って見出していくことが必要だと思います」(中山さん)