そのルーツは港湾労働者の集まりに過ぎなかった。山口組はいかにして日本の暴力団の頂点に立ったのか。半世紀にわたって取材してきたノンフィクション作家・溝口敦氏が「山口組」のキーマンを挙げる。【前後編の前編。後編を読む】
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山口組は日本最大、最強の暴力団といっていい。つまり近年暴力団全体の縮小、退潮が続いているが、その中でも山口組は依然、最多の組員を抱えるもっとも知名度の高い暴力団であり続けている。
「恐怖印」というべき山口組のイメージが結ばれる原動力となったのは、山口組がほぼ10年に一度のペースで繰り返してきた抗争と、それについての各種の報道だったろう。報道により山口組の好戦性は定着、増幅した。
山口組は1915年(大正4年)、初代・山口春吉により神戸で結成され、戦前には特に浪曲興行で知られる存在だった。田岡一雄は終戦後の1946年、三代目組長を襲名し、今日「最大、最強」といわれる山口組の基礎、原型を作った。
若頭・地道行雄を斬り込み行動隊長として、本拠地の神戸ばかりか九州、四国、山陰、関西、中京、関東、北陸などに進出、「全国制覇」といわれるまでの展開を示した。
田岡は晩年、心筋梗塞で健康に恵まれなかったが、それでも根っからの好戦性は失わなかった。夫人のフミ子もよく田岡を支え、若頭、若頭補佐などから成る執行部を巧妙にコントロールしてきた。山口組の綱領をはじめ、今日の山口組のバックボーンを調えたのは田岡であり、田岡抜きで今に至る山口組を語ることはできない。
若頭・地道は田岡が元気だった時代に暗躍、ほぼ全国制覇を完成した功労者だったが、1966年、兵庫県警により「山口組壊滅作戦」が開始されると、いち早く山口組の解散を唱えたことで田岡にうとまれ、若頭を解任された。
田岡に心服し、田岡という日本一の親分の下で「日本一の子分になる」と忠誠を誓い、その通りに実行したのが地道の次の次の若頭・山本健一だった。彼が参加した事件としては大阪での鶴田浩二襲撃事件、同じく大阪での明友会事件、指揮を執った抗争としては福岡事件(夜桜銀次こと平尾国人の暗殺をきっかけにする福岡勢との凶器準備集合事件)や大阪戦争がある。