日本最大の暴力団として今も勢力を維持する山口組。彼らはいかにして日本の暴力団の頂点に立ったのか。半世紀にわたって取材してきたノンフィクション作家・溝口敦氏が「山口組」のキーマンを挙げる。【前後編の後編。前編から読む】
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五代目山口組は渡辺芳則組長の下、宅見勝若頭の体制でスタートする。宅見は経済ヤクザでもあった。彼は目から鼻に抜けるほど聡く財も貯えたし、渡辺組長を自分用のロボットとして扱い、就任後数年間その発言を封じることまでした。
だが、そういう渡辺組長にも忠臣がいた。中野太郎若頭補佐である。中野はもともと山健組の出身で、渡辺にとっては叔父貴というべき存在だった。中野は自身も京都・八幡市の理髪店で会津小鉄会に襲撃されて、かえって返り討ちにしたが、事件に宅見がからんでいると考え、1997年8月、襲撃班を組み、新神戸駅前の新神戸オリエンタルホテルのラウンジで宅見を射殺した。
これにより宅見はヤクザとしての生涯を絶たれたが、いわば戦後派ヤクザの代表が宅見だった。彼は自分の親分を敬愛せず、道具としてわが利益のために仕立てて、いいように使った。田岡時代の山口組執行部は田岡を神のように崇め、心から仕えたが、そうした「美風」は田岡、竹中時代で絶え、ヤクザが誇る「親子盃」は宅見のころから形骸化した。
宅見事件後、残された宅見組らの組員たちは中野会への報復に立ち、若頭や副会長を射殺して仇討ちを済ませる。
渡辺組長は中野のおかげで宅見を除くことには成功するが、執行部が絶縁処分を決めた中野を再び山口組に迎え入れることは許されなかった。そのため渡辺組長は若頭や若頭補佐が長らく空席のままでも、補充すらできなかった。
こうして渡辺組長は当時、若頭補佐の一人だった司忍らに因果を含められ、健康体にもかかわらず、2005年、無冠で引退、後を司に譲った。血を流すことなく組長交代劇が行なわれたのだ。