ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その8」をお届けする(第1412回)。
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対華二十一箇条要求、とくに第五号は中国が受け入れるはずも無く、逆にこの要求を突きつけることは日本の評判を下落させ、英米には日本は中国への領土的野心を持っていると強く警戒させることになる。このことは冷静に事態を判断できる人間なら、わかっていたことだった。
われわれは歴史を結果から見る。だから「後知恵」で「こうすればよかったのに」などと言い、それで自分は過去の人間より優れているという優越感に浸りがちだ。たとえば、「今川義元はもっと偵察隊を出しておけばよかったのだ。そうしておけば織田信長の奇襲は成功しなかった。私ならそうする」などという類いの主張である。こんな歴史の見方は正しくないどころか、有害であることはすでに述べた。われわれは後世の人間だからすべてのデータを知っているが、今川義元はそうでは無かった。そのことを計算に入れずに義元を批判するのは不公平である。
では、この場合もそうなのか。この場合とは「対華二十一箇条要求などというバカなことはせずに膠州湾(青島)を無条件で中国に返還し、袁世凱政権と友好関係を築いて中国との利権問題を解決し、併せて貿易を盛んにする」ということだ。これは「後知恵」では無い。陸軍全体や新聞、そして国民は「十万の英霊」の「死を無駄にしないため」にそうした理性的判断とはまったく反対の態度を取っていたが、これまで述べてきたように外交官としての経験が深い当時の外相加藤高明も、ほかならぬ「陸軍の法王」である「古兵」山県有朋も、「そんなことをすべきでは無い」などと考えていたのである。
にもかかわらず、前回の最後に述べたように加藤は山県を「使って」陸軍を抑えようとせず、その結果陸軍の強硬な要求を自らの手で中国に突きつける羽目になってしまった。なぜ加藤は山県という「切り札」を切らなかったのか? 考えれば考えるほど不思議ではないか。
この問題を解くカギは、じつは当時の首相であり、結果的にはこの対華二十一箇条要求の最終責任者となった大隈重信にある。前に述べたように、首相大隈重信は外相加藤高明に全幅の信頼を置き、この件についてすべてを任せていた。もちろん大隈も山県同様「維新の生き残り」である。対華二十一箇条、とくに第五号が「通るはずの無い要求」であることは判断できたはずだ。それなのになぜ加藤の行動を黙認し、山県の力を使って陸軍の横車を阻止しようとしなかったのか?
じつは、このところが歴史の妙味というか政治の奥深さ複雑さである。評伝『大隈重信 「巨人」が築いたもの』(中公新書)の著者伊藤之雄は、対華二十一箇条について述べた章(第21章)の表題を「加藤高明しかいない」としている。どういう意味か? 「大隈にとって、イギリス風の政党政治を実現するという夢の継承者は、加藤ぐらいしかいなかった」(引用前掲書)ということだ。