愛子さまがこの3月、学習院大学を卒業された。愛子さまが誕生されたのは、天皇陛下と雅子さまのご結婚から8年目のこと。待望の第一子誕生に世間は祝福モードに包まれたが、その声はすぐに「第2子」「お世継ぎ」への期待の声に変わっていった。宮内庁との溝、一般家庭と同じ環境で子育てすることへの心無いバッシング……やがて雅子さまは体調を崩される。愛子さまと雅子さまの22年間を振り返る。【全3回の第2回。第1回から読む】
「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
2004年5月、欧州3か国訪問前の会見で陛下は、のちに「人格否定発言」と呼ばれる衝撃的な発言をされた。翌月には、雅子さまは「適応障害」の診断を受け、療養に入られる。愛子さまがまだ2才の頃だった。放送作家のつげのり子氏が述懐する。
「愛子さまが5才くらいの頃、雅子さまとスケートにお出かけになったときのことです。雅子さまが急に体調不良になりお休みされていると、愛子さまはすぐにかけよられ、ずっと寄り添っていたというのです。おそらく、まだ母親の病気を認識できる年齢ではなかったと思います。それでも、幼いながらに“母を力づけたい”という気持ちが芽生えられたのではないでしょうか」
だが、療養生活は大方の予想よりも長く続いた。同時に、小学生になられた愛子さまには変化が見られるようになった。
「幼い頃はご両親と那須や須崎の御用邸を訪れた際に、集まった人にあどけなくお手振りをされていましたが、小学生になると雅子さまの後ろに隠れるようになり、怯えられているような様子が見受けられました」(皇室記者)
愛子さまが小学6年生のときには、長野県・奥志賀高原でのご一家でのスキー旅行に向かわれる東京駅で、居合わせた一般男性が、「税金泥棒!」と罵声を浴びせたこともあった。愛子さまの表情は凍り付いたという。
「療養中、雅子さまは日中にお休みになり、深夜に赤坂御用地内を散歩されるなど、昼夜逆転の生活リズムになっていた時期もあります。それにつきあって愛子さまも夜型の生活になるなど、不安定になることもあったでしょう。誰にも相談できず、ストレスもたまったはずです」(宮内庁関係者)
世間からの風当たりが強まる中、母娘を守られたのが陛下だった。
「雅子さまが病に伏せられている間、愛子さまのお話し相手は陛下だけでした。陛下はどんな状況でも優しく、力強く、世間の声から雅子さまを守る姿勢を貫かれました。そのお姿に、愛子さまは信頼と尊敬のお気持ちをより強められたのだと思います」(皇室ジャーナリスト)
「公より子供を優先しており、皇族としての自覚がない」
学校生活でも、母娘には厳しい試練が待っていた。学習院初等科2年生の頃には、男子児童が愛子さまやほかの児童に乱暴な振る舞いをした「いじめ問題」が発覚。前後して、恐怖心を抱かれた愛子さまが長く学校を休んでいることが公表された。愛子さまと雅子さまとの「付き添い登校」が始まった。登下校、授業中、給食の時間は別室で、母娘2人で食事を取られることもあった。付き添い期間は、1年9か月におよんだ。
「2011年9月に山梨県の山中湖で行われた2泊3日の校外学習でも、雅子さまは現地に向かわれました。学級のルールとしては保護者の同伴は認められないものでしたが、雅子さまは時間差で愛子さまと同じルートをたどられた。児童たちが乗ったバスを、雅子さまの乗られた車が追い、そのうしろに警察車両や白バイ10台ほどが列をなす光景は異様でした」(学習院関係者)