プロ野球では幾多の名将が誕生したが、セ・パ両リーグで優勝した監督は、たったの3人しかいない。三原修、水原茂、そして広岡達朗だ。ヤクルトスワローズ、西武ライオンズの監督在籍期間にリーグ優勝4回・3度の日本一に導いた広岡は、徹底した管理で選手を鍛え上げ、その反動から選手に嫌われていたと言われる。そんな広岡の80年に及ぶ球歴を教え子たちの証言をもとにまとめた『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社)を上梓したノンフィクション作家・松永多佳倫氏が、ヤクルト時代における稀代の名将・三原修と広岡達朗の違いを検証する。(文中敬称略)
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1976年5月にヤクルトの荒川博監督が休養したことでヘッドコーチの広岡が監督に昇格した。翌年の春季キャンプから広岡流の指導方針に否応なく変わった。まず玄米、豆乳を推奨する食事管理から始まり、禁酒(休み前OK)、禁煙(ユニフォーム姿のみ)、禁麻雀と、とにかく無い無い尽くしの徹底管理が始まった。
奇しくも同級生の主力組である松岡弘、安田猛、若松勉、大矢明彦らは反発しまくった。荒川が1974年に監督に就任する前は、あの名将三原修が3年間指揮を執っており、松岡たちはその薫陶を受けている。「三原さんだったらなぁ」そう何度呟いたことだっただろうか──。
松岡にとって、プロ入り三年目に就任した三原修との出会いが強烈だった。西鉄三連覇の監督ということは知っていたけど他の情報はまったく知らないでいた。1971年、三原監督が就任したばかりの秋季キャンプでのこと。
「おいおい、松岡くんなぁ」
三原が近寄ってきて言う。
「練習しすぎ」