「最初に食べたご馳走はなんですか?」。子供の頃に母が作ってくれた料理、上京したときのレストラン、初任給で行った高級店……。著名人の記憶に刻まれている「初めて食べた忘れられない味」を語ってもらい、証言をもとに料理を再現するこの企画。今回は、小柳ルミ子(71才)さんに忘れられないご馳走を教えていただきました。
1970年、宝塚音楽学校を首席で卒業すると、NHK連続テレビ小説『虹』で女優デビュー。翌1971年には『わたしの城下町』で日本レコード大賞最優秀新人賞に輝いた小柳ルミ子さん。その後も映画『白蛇抄』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞し、18年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場するなど、女優と歌手の“二刀流”で昭和、平成、令和を駆け抜けてきた。その表現者としての原点は、母であるという──。
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歌手、踊り手、女優。すべての小柳ルミ子を作り上げ、プロデュースしてきたのはまぎれもなく母です。「頑張りんしゃいよ」と「いっぱい食べんしゃい」が口癖だったので、亡くなる直前に「もう頑張らんでよかよ。ルミ子が幸せで楽しいのがいちばん」と言葉をかけられたときには、胸が詰まる思いでした。
結婚するまで洋裁の仕事をしていた母は、みずから服を仕立てていました。自分の服は、花柄や好きだったグリーンの廉価な生地。私の服については値段を気にせず、いい生地で母が手作りしてくれました。装飾やカッティングにも凝っていて、学校や習い事の教室で「素敵なお洋服ね」と何度褒められたことか。母の優先順位は、何だって私がいちばんなんです。でも、その愛情はただ甘いだけではなくて、まずは「頑張りんしゃい」。
3才からクラシックバレエにジャズダンス、三味線や歌唱と、全部で8つの教室に通って、毎日くたくたでした。でも家に帰ると、それはもうおいしい食事が待っているんですね。中でも楽しみにしていたのが、すき焼きでした。お祝い事とお客さんを招く日は、これで決まりです。
「いっぱい食べんしゃい」ですから、親子3人なら最高級の牛肉を1kg、お客さんがいらっしゃるときは2kg。乱切りのおなすも、母のすき焼きには欠かせません。お肉や春菊のしっかりした風味を吸って、トロトロになったおなすはそれだけで絶品ですが、さらに濃厚な生卵を絡めると……生卵を3つは平らげてしまうほどでした。
写真集を見ても母は「きれかぁ」
私のことが最優先の母でしたが、食卓でのおしゃべりだけは譲りませんでした。といっても、世間話じゃないんです。スポーツ番組でも歌番組でも、母が口にするのは批評だけ。それは私に対しても同じです。「あのセットリストじゃ、ルミ子のよさを生かせてない」とか、厳しい指摘は何度も受けました。
それでも耳を傾けてしまうのは、母の目を信頼していたからです。私は、山田卓先生の振り付けが好きで、ずっとご一緒させていただいていたのですが、どうしてもスケジュールが合わず、別の先生にお願いした舞台がありました。母にはいっさい話していなかったのですが、すぐに見抜かれましたね。
同時に褒めるときもストレート。ザ・ドリフターズのコントに出たら「おもしろかぁ」、世間さまからは批判の声もあったヌード写真集を見ても躊躇せず「きれかぁ(きれいねえ)」と絶賛でした。そんな具合で、食卓での会話は母が6割、私が4割。おしゃべりな私たちを、いつでも笑顔で見守ってくれたのが、優しさにあふれた育ての父でした。