クラッシュ・ギャルズと極悪同盟の“抗争”が始まったのは1984年。彼女らの激しすぎる闘いは日本全国を熱狂の渦に巻き込み、空前の女子プロレスブームとなった。ダンプ松本を題材にした『極悪女王』(Netflix)の公開を控える今、当事者たちが振り返る。
怖がりのダンプ
女子プロレスブームを牽引したのがクラッシュ・ギャルズだ。ライオネス飛鳥と長与千種からなるコンビは、女性ファンを中心にアイドルレスラーとして絶大な人気を得た。
彼女らのライバルとして立ちはだかったのが、ダンプ松本率いるヒールユニット極悪同盟である。
「クラッシュ・ギャルズの2人とは同期だったけど、あの頃は本当に殺したいほど大嫌いだった。ヒールの極悪同盟とクラッシュらベビーフェイスは控え室も宿泊先も移動のバスも全部別。数年間はリングで戦う以外、口も聞かなかったし、ある時はリング上で2人を脅そうと、本物のドス(短刀)を用意しようとしたこともあったからね」
ダンプはこう回想する。
人気者になった同期に対抗するため他に道はなかった。髪を金に染め、顔に毒々しい特殊メイクを施して竹刀を振り回す。リング上でスパナやフォークなど凶器を用いた反則攻撃を厭わず、史上“最凶”のヒールと呼ばれた。
1985年に極悪同盟のナンバー2となり、ダンプとタッグを組んだブル中野。15歳で全日本女子プロレス入りし、16歳で悪役デビューした。
「本当はベビーフェイスに憧れていました。ただ、先輩のダンプさんからの誘いは断われない。最初はヒールになり切れませんでしたが、バリカンで頭を半分剃られて、“半ハゲ”にされたことで覚悟できました。ダンプさんは、本来優しい方ですが、“人前で笑わない”“握手やサインには絶対に応じない”という極悪の掟を徹底していました」
同期の中でも随一の実力者と評されていた飛鳥はこう振り返る。
「デビュー間もない松本香時代は一緒に練習していても、トップロープからのボディプレスを怖がってできなかった。
ダンプ松本に改名してからは意識が変わったようで、プロレスも変わった。クラッシュ・ギャルズを語る上で、極悪同盟との抗争は欠かせません」