鹿屋航空基地史料館では、真珠湾攻撃の作戦が練られた「鹿屋会議」などの史実に熱心に耳を傾けた。今、杉は何を思うのか。
「自分はこの先どう生きるんだ。自分にできることはなんだろうか――。そして平和のために戦わなければいけない。平和を維持するために、全力を尽くさなければいけない。決心というか、そう強く、想いを巡らせたところです」
施設の見学を終え、杉は自衛隊員ら約100名へ向けて講演した。
「さきほど真珠湾攻撃の話を史料館で聞き、思い出したことがありました。かつてハワイで現地の友人にパールハーバーの軍艦を見に行くかと誘われ、戦艦ミズーリ記念館を訪れたことがあったんです。そこで下士官の軍人が私に近づいてきて“杉か?”と、訊くんです。ハワイでそんなに有名じゃないはずなのにと不思議に思ったら、彼の甥が現地(ハワイ)の身体障害者の施設にいるそうなんです。“あんたはその施設を訪れたね。テレビで見たよ”って」
杉は1979年にハワイで催したチャリティー公演をきっかけに、「杉良太郎教育基金」を設立。ハワイ州立心身障害者協会への寄付などを継続的に行ってきた。
「施設にいる甥や子どもたちは毎年、杉からプレゼントを贈られて面倒を見てもらっている。だからこんな艦内ではあるけれどお礼を言わせてほしい、と。パールハーバーですよ? 今でも日本軍から攻撃された日を迎えると日本人を白い目で見る。どんなに仲良い間柄でも。その場所でアメリカ人が日本人の私に感謝したいと、そう言うんです」
下士官から告げられた「本当にありがとう」――。その言葉に杉の心が震えた。
「あぁ、人間同士なんだなぁ……。日頃からまごころを尽くしていれば、心が通い合うのだと。私は各地に災害があらば、駆けつける。神戸の震災(1995年の阪神・淡路大震災)の時には下道を通れずにヘリを飛ばし、東北の震災(2011年の東日本大震災)では炊き出しで5万食のカレーを作りました。何百kgという牛肉の量です。いつでも、少しでも自分にできることをしたい」