だるさとむくみ……異変は30代から感じていた
31才で宝塚を退団し、東宝演劇部に所属して間もない頃、体に異変を感じるようになったという。
「とにかく体がだるくて……。朝起きるとまぶたが腫れて目が開かないんです」
当時は、舞台やテレビなど、活動の場が広がり、仕事のスケジュールはいっぱい。体のことなど二の次で、仕事に穴をあけないことが大切だった。
「若かったから、いつか治るという根拠のない自信がありました。それに、舞台に立つ人間にとって、無理をするのは当たり前。熱があっても骨折をしても、宝塚では皆、笑顔で舞台に立っていました。1981年、33才のときに母を亡くしましたが、公演があったため葬儀に参列できなかったくらいです。自分が休めば皆に迷惑がかかる。そう教育されてきたんです」
とにかく、弱音は吐かない。「できない」「つらい」「苦しい」といったネガティブなことを口にすることを自ら固く禁じていたという。
「宝塚時代にトップスターだった経験も大きかったと思います。トップにいる人間がマイナスなことを口にしたら、組全体の士気が下がりますから。弱い自分をもう一人の自分がコントロールする──。そんなことが自然と身についていったように思います」
しかし1984年、37才のときには目に見えて体調が悪くなっていた。ワイドショー『3時のあなた』(フジテレビ系)にゲスト出演したとき、司会の森光子さんが安奈の顔を見るなり、
「すぐに病院に行きなさい。さもないと死ぬわよ」
と厳しく注意をしてくれたという。このときすでにC型肝炎の診断を受けていたが、治療をしていなかったため症状が悪化し、顔に黄疸が出ていたのだ。
「番組終了後、病院に行きましたが、この頃、森繁久彌さん主演の舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』の公演中だったため、休むことは考えられませんでした」
気休めの薬だけもらって仕事を続けたが、3か月後には、舞台の幕間に倒れ込み、30分の休憩後に幕が上がるとまた起き上がって公演を続けるという状態に。ついには入院することになった。
「黄疸と赤い斑点も出ていて、医師には末期症状だと言われました」
しかしこのとき治療をしたおかげで症状が落ち着き、再び無理をする毎日に戻っていった。
「症状が治まっても体は弱っていたんでしょう。髄膜炎で救急搬送されたこともありましたが、漢方や整体のお世話になりながら、だましだまし舞台に立っていました」
(第2回につづく)
【プロフィール】
安奈淳(あんな・じゅん)/1947年大阪府生まれ。15才で宝塚音楽学校に入学し、1965年に宝塚歌劇団へ入団(51期生)。星組、花組の両方で男役トップスターに就任。『ベルサイユのばら』(1975年)、『ノバ・ボサ・ノバ』(1976年)などで主演を務め、1978年、『風と共に去りぬ』での主演を最後に宝塚を退団。その後、東宝演劇部に所属し、テレビや舞台などに活動の場を広げる。舞台『南太平洋』(1979年)や『王様と私』(1980年)に主演。故・森繁久彌さんの代表作『屋根の上のヴァイオリン弾き』(1980年)にも出演。現在は、歌手としてコンサートやショーなどで活躍。主な著書に『安奈淳スタイル』(ライスプレス)など。
取材・文/上村久留美
※女性セブン2024年6月20日号