新作エッセイ本『国道沿いで、だいじょうぶ100回』を上梓した作家・岸田奈美さんは、“一生に一度しか起きないようなことが何度も起こってしまう”と自身で話す通り、驚きと笑いのエピソードをnoteでつづっている。そんな岸田さんは中学生の時に父親が他界。その3年後、母親が病気により車椅子生活を余儀なくされ、弟はダウン症で知的障害がある――。noteでのエッセイは多くの読者の共感を呼ぶ一方で、誹謗中傷を受けることもあるという。岸田さんはそうした声とどう向き合っているのか。
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SNSやnoteのフォロワーが多い岸田さんだけあって、記事や写真を掲載すると読者から多くのコメントが届く。ほとんどが好意的なものだが、「死ね」というメッセージが届いたことがある。
「弟の写真をnoteの記事に掲載したときに、急に『死ね』というコメントがきました。もし彼の正体を知らなかったら、きっと一生恨み続けて、会ったら竹槍で突いたるからな! と思ってしまうくらい、不安と怒りに駆られる人生になったと思うんです。
けれど、コメントの主に連絡をとって話をしてみたら、その子には発達障害があって、本人も『障害者死ね』と言われていじめられていたそうなんです。誰かを刺すような発言は、その人の傷ついている部分や疲れている部分などから発せられていることもあると知りました」(岸田さん・以下「」同)
有名人が炎上すると、それにかぶせるように叩いたり批判したりするコメントがあふれる。これらも見方を変えると、助けを求める声なのではないかと岸田さんは言う。
「本当は、みんな自分の話がしたいだけなんですよ。私のエッセイの感想をたくさんいただく中で、圧倒的に多いのは『共感しました。実は私もお母さんが介護で~』とか、『岸田さんのこの記事を読んだけど、ちょっと嫌でした。なぜなら僕はお母さんとずっと一緒にいたから、家族から離れて一人暮らしをする岸田さんは薄情ではないか』とか。
全部目を通してみると、結局はみんな自分の話がしたいんだなって。ただ、なかなか自分の話をすることはできないから、何らかのきっかけを探している。炎上したあの件を許せない!って言ってる人も、実は『自分も職場で同じ思いをしたから許せない』と思っているなど、みんな結局何かしらの発言をしたいんです。でも“私の話をしたい”って言うのはなんとなく格好悪いことのように感じてしまうから、どうにか隠すんですよ、本音を。
だから、エッセイの感想で嫌なことを言われたりとか、予想もしなかったことを書かれたりしても、その人はその発言によって発散して、少しは救われているのだなと。私に直接向けられた言葉ではないって思うようにしています。もちろん人から嫌われたくはないですから、どこかで気にしてはいますけどね」
デジタルネイティブだからこそ分かるネットの怒り
こういった考えにいたるきっかけは、岸田さんが小学生の頃にさかのぼる。当時の岸田さんは、友達ができないことに苦しんでいた。
「好きな漫画の話をとにかくしたくて……しかもその漫画がオトンの本棚にあった『課長島耕作』で、サラリーマンめちゃかっこいいなとか、男女の恋愛ってこういうふうにうまくいくんだとか、そういう話を脳が焼けるくらい一気に喋ってしまう子供だったんです。
小学生の頃から、私は自分が好きだと思ったことを言葉にしないと満足できなくて。でも、みんなは違うんですよね。周りはテレビの話とか軽い雑談をしているけど、私は今で言うオタクっぽい早口しゃべりで、毎回プレゼンするような熱量。当たり前なんですけどみんな話を聞いてくれなくて……。いじめられているわけじゃないけど、なんか遊びに誘われないとか、クラスの中でややこしい存在になっていました。
それがすごくショックで自信をなくして家で泣いているときに、オトンが急にパソコンを買ってきて、『これからはインターネットや! お前の友達はこの箱の向こうにいるから、自分を責めんでいい。友達を箱で作れ!』って言ったんです。
インターネットのおかげで、掲示板で好きなものを好きなだけ話せる相手ができた。でもインターネットの中には無法者も多く、誰かがきつい言葉を投げるときつい言葉が返ってくる光景もあって、安心していた場所がそういうものたちに侵食されていくという経験もしました。だから、デジタルネイティブで、ネット内の不躾な怒りの感情にも慣れている部分はあると思います」
敵に寄り添うことで自分の物語にできる
炎上に耐性はあるといえど、やっぱり見ていて苦しいときもある。岸田さんは、炎上コメントをする人こそ、日記を書くことで“話したい”という欲求を発散できるのではないかとすすめる。