アイドル黄金期、お茶の間は“聖子派”と“明菜派”に二分された。今なお比較されることの多い松田聖子と中森明菜、2人の“対立構造”が生まれたのは、ちょうど40年前のことだった。2人の転換点と1984年を、芸能ジャーナリストの渡邉裕二氏が振り返る。
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1984年1月。世間では前年10月にリリースした松田聖子初の失恋ソング『瞳はダイアモンド』のヒットが続いていました。その流れに歯止めをかけたのが、1月1日に発売された中森明菜の『北ウイング』でした。康珍化作詞・林哲司作曲による7枚目のシングルで、明菜が曲のタイトルを『ミッドナイト・フライト』から変更を提言したといわれる意欲作です。以降、明菜は曲ごとに作家陣を入れ替えながらヒットを飛ばした1年になりました。特に『飾りじゃないのよ涙は』は、井上陽水が明菜のために書き上げた曲としても注目され、明菜がアイドルからアーティストに脱皮したという強いインパクトを与える楽曲でもありました。
一方、この年の聖子は『ピンクのモーツァルト』など、いずれもオリコンチャート1位を獲得し、相変わらずの強さを見せつけています。ところが、歌番組『ザ・ベストテン』(TBS系)では同年発売曲での1位は『Rock’n Rouge』のみ。かたや『北ウイング』が5週連続1位になるなど、明菜の破竹の勢いが止まらず、対照的な2人を比較して対立軸を煽るメディアが、この頃から増え始めました。
翌1985年に聖子は結婚。明菜は1985年と1986年にレコード大賞連続受賞の快挙を成し遂げています。
1980年代は個性が尊重されるようになった時代。事務所の想定するアイドル像を演じるのが当たり前だった当時、人気絶頂期に結婚を選んだ聖子と、曲や衣装に自分の意思を反映させ始めた明菜は、“時代の象徴”として今でも多くのファンを虜にしているのでしょう。
【プロフィール】
渡邉裕二(わたなべ・ゆうじ)/静岡県出身。芸能・音楽記者として活動。ドラマCDのプロデュースや舞台の企画なども手掛ける。近著に『中森明菜の真実』(MdN新書)がある。
※週刊ポスト2024年7月19・26日号