行司になるには熱意、そして時の運が必要
行司の“姓”は「木村」と「式守」の2つ。一門や部屋ごとにどちらを名乗るかは決まっている。入門直後は本名を下の名前に使い、出世していく中で由緒ある行司名を継承して三役格まで進む。そして立行司の式守伊之助、さらに木村庄之助の順で昇進していく。
2023年6月に相撲協会に採用された押尾川部屋の式守風之介は、中学1年の時に大相撲中継で式守伊之助(当時。現在の第38代木村庄之助)の所作に憧れて手紙を書いた。それから2年間もLINEでやり取りを続け、中学卒業と同時に伊之助から押尾川部屋を紹介された。押尾川部屋は元関脇・豪風の押尾川親方が2022年2月に創設した新興部屋で、部屋には行司がいなかった。しかも当時の行司会の定員に空きがあった幸運も重なり、新弟子として採用された。行司になるには熱意、そして時の運が必要なのだ。
第37代木村庄之助の畠山は1965年、中学卒業と同時に入門した。生まれ育ったのは相撲が盛んな青森県上北郡六戸町。地元に来ていた大相撲関係者が行司を探していることを耳にし、進学か就職かで迷っていた畠山少年の心は決まった。畠山は当時を「人のやらないことをやろうと思って志した」と振り返っていた。
採用されると、相撲部屋で力士たちと共同生活する。判定の公平性の観点から、ほとんどのスポーツ競技では審判と選手が親しくすることは禁止されているが、親交どころか、一つ屋根の下で両者が寝食を共にする競技は大相撲ぐらいだろう。同部屋の力士には情も移るだろうし、微妙な判定にそれが影響しないとも限らない。
この奇妙で異質なスタイルは、地方巡業を一門単位で催行していたことに由来する。一門内に行司や呼び出しなどの“裏方”がいないと巡業ができないからだ。
伝統が変わった時期もある。1958年に巡業が協会の一括管理となった際に、中立・独立を保つ目的で「行司部屋」が創設された。畠山も第4代木村玉治郎(後の第27第木村庄之助)に弟子入りし、高島部屋(現大島部屋)に預けられた。しかし1973年に行司部屋は解散し、行司たちはそれぞれの相撲部屋へ帰された。当たり前ではあるが、行司部屋には人気者(力士)がいない。そのため有力なタニマチ(後援者)がつかず、経済的に立ち行かなくなったのだ(先述した「行司会」はこの時に発足)。
中立を掲げて独立したのに、経済的な都合で旧来のスタイルに戻す。“伝統を大切にする”といえば聞こえは良いが、“公平な判定は二の次”という見方もできる。その意味でも、大相撲の行司は他のスポーツ審判と同列に語れない。
(後編に続く)
※『審判はつらいよ』(小学館新書)より一部抜粋・再構成
【プロフィール】
鵜飼克郎(うかい・よしろう)/1957年、兵庫県生まれ。『週刊ポスト』記者として、スポーツ、社会問題を中心に幅広く取材活動を重ね、特に野球界、角界の深奥に斬り込んだ数々のスクープで話題を集めた。主な著書に金田正一、長嶋茂雄、王貞治ら名選手 人のインタビュー集『巨人V9 50年目の真実』(小学館)、『貴の乱』、『貴乃花「角界追放劇」の全真相』(いずれも宝島社、共著)などがある。大相撲の行司のほか、野球やサッカー、柔道、飛び込みといった五輪種目を含む8競技のベテラン審判員の証言を集めた新刊『審判はつらいよ』(小学館新書)が好評発売中。