日本選手団のメダルラッシュに沸いたパリ五輪。大いに盛り上がった人がいた一方で、あまり興味がない人もいる。『女性セブン』の名物ライター“オバ記者”こと野原広子が、五輪への冷静な気持ちを率直に綴る。
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「もう、昨夜はガチヤバだったでしょ?」「何が?」「ええ〜っ、広子さん、知らないんですか。男子体操が団体で金メダルを取ったんですよ!」
わが家に出入りしている“娘もどき”のチエコ(29才)と私の先日の会話だ。チエコはハーフマラソン大会に出場するようなスポーツウーマンで、ノースリーブのシャツから出た筋肉質の腕が眩しいったらない。
そりゃあ、パリ五輪での体操男子は面白かったわよ。ちょっとしたミスでメダルの色が変わる緊迫感は見応えがあった。それでも、「見逃して残念」とまでは思わないんだわ。「見てよし、見なくてもよし」と私はどこか冷めている。てか、それ以前に、芸術国フランスが総力を挙げたに違いない開会式からして、だから何? 後からスマホで動画をチラッと見たけど、正直、この壮大なスペクタクルが見ちゃいられないのよ。ひねくれ者? そうかもね。
私と五輪の出会いは1964年の東京五輪で、当時小2の私は近所の家を回って白黒テレビを見せてもらったの。開会式では空に飛ぶ鳩の群れに驚き、ルールも知らないのに女子バレーに興奮したっけ。体操競技の翌日、学校では男の子たちが「チャスラフスカ、ボイン!」と言いながら、手で胸に山を作って笑っていたのも忘れない。茨城の田舎では体のラインを出した女性を見たことがなかったから、それだけで騒ぎだったのよね。女子バレー選手はブカブカの提灯ブルマーだったもの(ちなみに、「ベラ・チャスラフスカ」は旧チェコスロバキアの女子体操選手。1964年の東京五輪、1968年のメキシコ五輪で計7個の金メダルを取り、「五輪の名花」「東京の恋人」と呼ばれた)。
とはいえ、いまと変わらないこともある。それは、試合の合間やドキュメンタリー番組で選手たちがどれほど厳しい練習をしてこの晴れ舞台に立ったのか、繰り返し放送されることよ。なぜそこまでして頑張れるの?と、子供だった私は思ったけれど、身近な大人たちの答えは1つ。
「そら、タダでアメリカに行けるからだよ」
いま思うと笑っちゃうけれど、当時の茨城では「外国=アメリカ」で、フランス人もドイツ人もひっくるめて「アメリカ人」と言ったのよね、少なくとも私の周りでは。だから東京の次の開催国がメキシコと知ると「アメリカじゃないんだ」と気落ちした。メキシコでは五輪のご褒美が足りないではないかと思ったのよ。
ところがいざメキシコ五輪が始まると、女子バレー、男子バレーともに銀メダル。このときはわが家にもテレビがあって、夢中になって応援した。翌年、中学生になった私がバレーボール部に入部したのはその影響だ。それからミュンヘン、モントリオールと続いて、そのたびに脚光を浴びる種目とスター選手が出てきて、私も無邪気に世界規模のスポーツを楽しめたんだよね。
夢から覚めたのは1980年のモスクワ大会よ。