不作為の嘘は、作為の嘘より道徳的に甘く判断される傾向がある。記憶にないと言われるよりも作為的に嘘をつかれた方が、ネガティブな印象を受けるという「不作為バイアス」があるからだ。そして記憶にないを政治家らが連発するのは、彼らに本当に記憶がないのかどうか、他人が見極めるのが難しいからでもあるが、世間はこれが逃げ口上だと過去の経験から察知し、信頼は崩れ去る。百条委員会の追求にも自身の正当性を主張しながら、記憶にないという言葉を使い分ける斎藤氏の姿は、説明責任を果たしているというより、公益通報で違法の判断とされないよう知事の座にしがみついているようにも見えてくる。
知事選で推薦を受けた日本維新の会が辞職と出直し選挙を申し入れてもこれを拒否し、県議会最大会派の自民党が不信任案決議を提出することを視野に動いていると聞いても、「大変重く受け止める」「どういう道を進むかは自分で決める」と辞職を拒否。だが11日の定例会見では応援してくれた人々に「申し訳ない」「自分自身に対して悔しい」と目を赤くして涙したのは、人として正しい道を守るべき責任である道義的責任がわかっているからだろう。
総理としての「資質があるかは皆さんに判断頂く」、自民党総裁選に立候補した小泉進次郎元環境相は、想像していたよりも力強い言葉でハキハキと臆することなくそう答えた。「知的レベルの低さで恥をかくのでは」というフリージャーナリストの質問にも、危な気のない上手い切り返しをみせ、恥をかくどころか株を上げたという声さえある。
知事としての資質があるか県民に問う、という判断は、今の斎藤氏にはないらしい。さて、兵庫県政の混乱はいつまで続くのだろう。