他人の失敗を、単に野次馬として眺めるか他山の石とするかは後に大きな違いを生むだろう。コラムニストの石原壮一郎氏が考察した。
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世の中の多くが「これは、さすがに辞職かな」と思い始めてから、もう2カ月ぐらいになるでしょうか。パワハラやおねだりなどの疑惑が次々に飛び出し、激しい批判を受け続けている斎藤元彦・兵庫県知事は、驚愕の粘り腰を見せ続けて今も知事のままです。
パワハラやおねだりも十分に問題ですが、それ以上に重大なのが、知事の問題点を告発した「公益通報者」に対する対応や、阪神・オリックスの優勝パレードの際の補助金キックバックに関する疑惑。もし報じられている通りなら、警察や司法の出番です。一連の疑惑と深く関係していると思われる悲しい事態も、複数起きてしまいました。
しかし、どれだけ批判が高まっても、百条委員会で厳しく詰められても、もはや知事の役割が果たせる状態ではなくなっても、斎藤知事は「県政を担わせていただきたい」と言い続けています。最近では、そのメンタルのあまりの強さに感心する声も出てきました。
いろいろ理解が追い付きませんが、前代未聞の事態が起きているのは確か。報道の内容や顔写真を見てムカムカしているだけではなく、せっかくなので何か学んでしまいたいところ。というわけで、個人的に「斎藤知事を見ていて得られた4つの気づき」をご紹介します。あくまで勝手に気づきを得ただけなので、ご本人の実際の心情はわかりません。
●気づきその1〈人はどんなに四面楚歌の状況でも自分を正当化できる〉
ここまで来て、斎藤知事が辞めないのはなぜでしょうか。続けることが責任を果たす道だと本気で思って、責任感の強い自分に誇りを覚えているのかもしれません。もしかしたら「この絶体絶命の状況で耐えしのげるなんて、さすが俺」と、戦う自分の姿がカッコよく見えているのかもしれません。「悪いのは側近たちや一方的な報道に精を出すマスコミだ。ここで辞めたら自分が悪かったことになる」と考えている可能性もあります。
いずれにせよ、ご本人の中で自分を守ったり正当化したり美化したりする何らかの理屈を構築していないと、今の状況には耐えられないでしょう。斎藤知事のおかげで、あらためて「人間とはなんと強くてしなやかな生き物だろうか」という気づきを得ました。
●気づきその2〈世の中には「責任を認めたら負け」と思っている人がいる〉
さんざん報じられている「疑惑」が真実かどうかは、たしかにまだわかりません。それはさておいても、9月6日に行なわれた百条委員会の2回目の証人尋問の場で、委員から一連の問題の道義的責任をどう考えているかという質問に対して、「道義的責任というのが何かというのがわからない」と答えたことには多くの人が呆れました。
ご本人としては、きっと深い意味を込めて言ったのでしょう。ただ、聞いている側としては、あらためて「なるほど。『責任を認めたら負け』と思う人って、実際にいるんだな」という気づきを得ました。この一言は大きな反発を招いて、斎藤知事をますます追い詰めることになります。「責任」をめぐるこの流れは、以て他山の石としましょう。