キャンパスが沸騰した1980年代から1990年代、大学の学園祭は学生だけでなく芸能人にとっても重要なイベントだった。時の人気アイドルが学園祭に登場した。
1971年の「早稲田祭」の天地真理に始まる“学園祭の女王”の歴史は、その後多忙なアイドル歌手の出演減少に比例して、竹内まりやなどニューミュージック系に人気が集まった。中でもフォーク系でアイドルの要素を兼ね備えた太田裕美は引く手数多だった。バブル期になると、セクシー系歌手が台頭する。杉本彩はSMスタイルなどの過激な衣装で女王の座を獲得。1989年には清楚さと美脚が持ち味の森高千里が21校のステージに立った。
令和に入るとコロナ禍で学園祭の中止が相次いだが、昨年はNHK紅白歌合戦4度出場のLittle Glee Monsterが4校を回った。SNSなどを通じ、アイドルを直接応援することもできる時代となったが、学生たちが歳の近いタレントのステージを共に作り上げる喜びは健在だ。
中森明菜「幻の早稲田祭出演」
デビュー1年目の1982年、中森明菜は早大芸能音楽研究会の主催で早稲田祭への出演を快諾した。前売700円のチケットを握り締めた500人を超える学生が15号館302教室に集まったが、壇上でマネージャーが「過労による高熱のため中止」を発表するや場内は騒然となった。
しかし翌年12月、同研究会のために東京・永田町の社会文化会館で『少女A』など7曲を熱唱、万雷の喝采を浴びて約束を果たした。ちなみに、1982年の早稲田祭には柏原芳恵、松本伊代、三田寛子という当時人気絶頂のアイドルたちも出演した。
早稲田vs慶應“林寛子争奪戦”勃発
1975年、“学園祭の早慶戦”が勃発した。「林寛子を早稲田に入学させる会」と「慶大ヒロイズム研究会」が当時高校2年生だった林寛子を奪い合うも、スケジュールの都合で早稲田祭への出演が決定。すると慶應は、早稲田に草野球対決を申し込んだ。林は炭酸飲料「リボンシトロン」のCMに出ていたため、スポンサーのサッポロビールが両校のユニホームを製作。2つのサークルは雑誌でも取り上げられ、一般にも知られるところとなった。
新聞も報じた“キョンキョン人気”
1982年、『私の16才』でデビューした小泉今日子は京都大学「11月祭」に招かれた。ところが予想をはるかに上回る約7000人が押し寄せたため、主催者が中止を決定。学生数人が怒りにまかせて舞台装置を破壊する騒ぎになり一般紙も報じた。
翌年も近畿大学「生駒祭」の前夜祭に登場したが、鉄柵を乗り越える観客が相次ぎ、3曲を歌い終えた所で中止に。その後1988年に小泉はラジオ番組『オールナイトニッポン』で学園祭ツアーの敢行を宣言。高知大学を皮切りに全国10校で開催し、多くのファンを魅了した。
※週刊ポスト2024年9月20・27日号