どんなに愛した相手だったとしても、時間の経過とともに喪失感は薄れ、悲しみは和らいでいくものだろう。ましてや三十三回忌ともなれば、弔い上げを行い、年忌法要に一区切りをつける場合も多い。
ところがちあきは、月命日の墓参りを欠かさなかったばかりか、郷さんの死の数年後には、墓からほど近いマンションにも転居。“ずっとそばにいる”ことを選び、冒頭のように、まるで郷さんの死がつい最近のことのように悼み、涙を流したのだ。歌うことが生きがいだったちあきが、それを30年以上封印してでも貫いた愛は、海よりも深いのだろう。
夫が荼毘に付される際には取り乱す姿も
デビュー55周年の今年6月、沈黙を破る動きがあった。代表曲の『喝采』(1972年)を含む425曲が、音楽サブスクリプションサービスで配信された。ちあきの楽曲は、往年のファンに加えて若い世代からも注目され、結果、レコチョクとiTunesのダウンロード数ランキングで『喝采』が1位を獲得した。
このサブスク解禁に尽力したのが、ちあきが所属していたテイチクレコードの元社長で『喝采』のプロデューサーも務めた東元晃氏だ。現在もちあきと連絡を取り合う、数少ない友人でもある東元氏が言う。
「彼女に電話で1位になったことを伝えると、“よかった!”と声を弾ませていました。彼女は自分の歌に対してものすごく厳しい人で、レコーディングでは納得がいくまで終えようとはしなかった。そうやって生み出した曲ですから、一曲一曲に対する思い入れが強いんです。その歌が時代を超えて受け入れられたことをとても喜んでいます」
活動休止前に「静かな時間を過ごさせて下さいます様よろしくお願いします」とコメントも残したちあき。サブスクの反響にいちばん驚いているのは、彼女本人かもしれない。
「ちあきさんは、“歌をやめれば、みんな私のことを忘れていく”と考えていました。ところが、そうではなかった。30年以上が経過したいまも、多くの人に求められているという事実を受け止めていると思いますよ」(古賀氏)
その歌声を最も届けたい郷さんとの出会いは、1973年のことだった。
「宍戸錠さん(享年86)が、実弟で俳優の郷さんを引き合わせたのです」(古賀氏)
ふたりは1978年、周囲の反対を押し切って結婚した。郷さんは役者の仕事を辞め、ちあきのサポートにまわることを決意。ちあきは郷さんが社長を務める個人事務所に移籍して活動を続けたが、シャンソンやジャズを模索するちあきと、演歌路線を求めるレコード会社とで反りが合わず仕事が激減した。芸能界での居場所を失いかけたが、1988年にテイチクレコードに移籍すると、11年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場するなど、シンガーとしての存在感を取り戻した。
郷さんが亡くなったのは、再び歌うことが生活の中心となって4年目のことだった。肺がんを患った郷さんは、ちあきの懸命な看病の甲斐なく1992年に他界。荼毘に付されるとき、ちあきは「私も一緒に焼いて」と取り乱すほどだったという。以降、表舞台には姿を見せず、夫への変わらぬ愛を貫いてきたが、もうひとつ、ちあきには変わらないものがある。東元氏が続ける。
「歌手活動から遠ざかっても、歌うことへの関心が薄れているわけではありません。多くのファンが復帰を望んでいるのも、ちあきさんは知っています。でも誰かに促されて歌うのは、彼女のなかでは何かが違う。復帰に向けた自然な流れが生まれれば、活動再開の可能性はあると思います」
人知れず涙を流した三十三回忌の6日後、ちあきは喜寿を迎えた。デビュー55周年という節目も重なったいま、再び彼女の「幕が開く」ことはあるのだろうか。
※女性セブン2024年10月10日号