我々の世代までは、ものすごい体験をしている

 東京・杉並で生まれ育った川本さんが、本の中では、ひたすら東へ、水のあるほうへと向かっている。

「西東京で育っていますから、川のある風景をまったく知らなかったんです。それが荷風の影響で下町を歩くようになって、川沿いを歩くのはいいなと思うようになりました。

 東京の東に行くと隅田川があって、江戸川があり、中川があり、荒川があるでしょう。ほかにも、ちっちゃな掘割がいろいろあって、水のある風景になんだかすごく惹かれるようになっていったんですね」

 少年時代の友だちとの会話や街角でふと目にした風景を読み、記憶の確かさに驚嘆させられる。

「もちろんフィクションの部分もありますけどね。今の若い人たちは子ども時代と今とがほとんど地続きだと思うんです。そんなに変化がないでしょう? 我々の世代までは、戦争というものすごい体験をしているので、そのぶん記憶が鮮明になるんじゃないかという気がします」

 ひとつの記憶が呼び水となって、別の記憶に繋がっていく。川本さんの父は昭和20年に亡くなっているが、亡くなった父の不在が、「夜のショウウィンドウ」や「浜辺のパラソル」といった文章で、懐かしい母の姿とともに描かれているのも胸に残る。

「母は40歳ぐらいで未亡人になって、5人の子どもを抱えて、よく生き延びたと思います。私には父の記憶がまったくないんです。父親がいないのが当たり前だと思って育ってきて、いまだにイメージがつかめないんですけど、この本の文章を書いていたとき自分が死んだ父親の年を超えていることに気が付いたんです。

 そのときからものすごく父親を意識するようになりました。あくまで幻でしかないので、母親とのセットでしか書けないんですけど」

 いちばん好きな映画、イングマル・ベルイマンの『野いちご』を意識して書いた文章もあるそうだ。

「老人が朝起きて学位授与式に行く一日の映画なんですけど、これまでの人生を思い起こして、授与式を終えて眠りにつくときふっと少年時代を思い出す。あの手法をいくつか真似ています。なかなかベルイマンのようにはいきませんが」

 たしかに、収められた文章はどれも、映像がつよく喚起される。発表時には「詩小説」という言葉が使われていた。固有名詞がほとんど省かれているのは、できるだけ抽象的にしたかったからだそう。

 人間関係を描いた小説はあまり好みではない、と川本さん。

「太宰治は苦手、夏目漱石もどちらかというと苦手です。荷風が好きなのも、彼が『見る人』に徹しているから。『人間対人間』よりも『人間対風景』を書いたもののほうが好きですね」

 つげ義春から受けた影響も大きく、観光地でもなんでもない土地を1人で旅するようになったのも、つげから学んだことだという。

「私は東京の人間ですけど、バブルの頃から現在に至るまで、東京と波長がどんどん合わなくなってきています。今の渋谷なんかを歩くのも嫌で、東京でも神保町は古書店や個人の店があってまだいいんですけど、ここ数年はローカル線に乗って地方の小さな町ばかり歩いています。

 あとは台湾ですね。台湾の人にそう言うと、『台湾は東京よりもっとモダンです』と怒られちゃうんですけど」

【プロフィール】
川本三郎(かわもと・さぶろう)/1944年東京生まれ。新聞社勤務を経て評論家に。1991年『大正幻影』でサントリー学芸賞を、1997年『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』で読売文学賞を、2003年『林芙美子の昭和』で毎日出版文化賞と桑原武夫学芸賞を、2012年『白秋望景』で伊藤整文学賞を受賞。近著に『ひとり遊びぞ我はまされる』や『映画の木洩れ日』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』、ブラッドベリー『緑の影、白い鯨』、ロンドン『ザ・ロード アメリカ放浪記』など。

取材・構成/佐久間文子

※女性セブン2024年11月7日号

関連記事

トピックス

海外セレブも愛用するアスレジャースタイル(ケンダル・ジェンナーのInstagramより)
「誰もが持っているものだから恥ずかしいとか思いません」日本の学生にも普及する“カタチが丸わかり”なアスレジャー オフィスでは? マナー講師が注意喚起「職種やTPOに合わせて」
NEWSポストセブン
政治資金の使途について藤田文武共同代表はどう答えるか(時事通信)
《政治資金で使われた赤坂キャバクラは新規60分4000円》維新・奥下議員が訪れたリーズナブルなキャバの店内は…? 「モダンな内装に個室もなく…」 コロナ5類引き下げ前のタイミング
NEWSポストセブン
山上徹也被告(共同通信社)
「旧統一教会から返金され30歳から毎月13万円を受け取り」「SNSの『お金配ります』投稿に応募…」山上徹也被告の“経済状況のリアル”【安倍元首相・銃撃事件公判】
NEWSポストセブン
神奈川県藤沢市宮原地区にモスクが建設されることが判明した(左の写真はサンプルです)
《イスラム教モスク建設で大騒動》荒れる神奈川県藤沢市 SNSでは「土葬もされる」と虚偽情報も拡散 市議会には多くの反対陳情が
NEWSポストセブン
イギリス出身のインフルエンサー、ボニー・ブルー(Instagramより)
《バリ島でへそ出しトップスで若者と密着》お騒がせ金髪美女インフルエンサー(26)が現地警察に拘束されていた【海外メディアが一斉に報じる】
NEWSポストセブン
いまだ“会食ゼロ”だという
「働いて働いて…」を地で行く高市早苗首相、首相就任後の生活は“寝ない”“食べない”“電話出ない” 食事や睡眠を削って猛勉強、激ヤセぶりに周囲は心配
女性セブン
大谷が語った「遠征に行きたくない」の真意とは
《真美子さんとのリラックス空間》大谷翔平が「遠征に行きたくない」と語る“自宅の心地よさ”…外食はほとんどせず、自宅で節目に味わっていた「和の味覚」
NEWSポストセブン
逮捕された村上迦楼羅容疑者(時事通信フォト)
《闇バイト強盗事件・指示役の“素顔”》「不動産で儲かった」湾岸タワマンに住み、地下アイドルの推し活で浪費…“金髪巻き髪ギャル”に夢中
NEWSポストセブン
「武蔵陵墓地」を訪問された天皇皇后両陛下の長女・愛子さま(2025年12月3日、撮影/JMPA)
《曾祖父母へご報告》グレーのロングドレスで参拝された愛子さま クローバーリーフカラー&Aラインシルエットのジャケットでフェミニンさも
NEWSポストセブン
2021年に裁判資料として公開されたアンドルー王子、ヴァージニア・ジュフリー氏の写真(時事通信フォト)
《約200枚の写真が一斉に》米・エプスタイン事件、未成年少女ら人身売買の“現場資料”を下院監視委員会が公開 「顧客リスト」開示に向けて前進か
NEWSポストセブン
指示役として逮捕された村上迦楼羅容疑者
「腹を蹴れ」「指を折れ」闇バイト主犯格逮捕で明るみに…首都圏18連続強盗事件の“恐怖の犯行実態”〈一回で儲かる仕事 あります〉TikTokフォロワー5万人の“20代主犯格”も
NEWSポストセブン
海外セレブの間では「アスレジャー
というファッションジャンルが流行(ケンダル・ジェンナーのInstagramより)
《広瀬すずのぴったりレギンスも話題に》「アスレジャー」ファッション 世界的に流行でも「不適切」「不快感」とネガティブな反応をする人たちの心理
NEWSポストセブン