1987年の騎手デビューから34年間にわたり国内外で活躍した名手・蛯名正義氏は、2022年3月から調教師として活動中だ。蛯名氏の週刊ポスト連載『エビショー厩舎』から、蝦名氏が競馬学校で学び、騎手デビューした新人時代についてお届けする。
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今年は「JRA70周年」ということでさまざまな記念事業が行なわれています。1954年創立の「日本中央競馬会」は、1987年にJRAといわれるようになりましたが、僕がデビューしたのがこの年です。赤鉛筆を耳に挟んだおじさんたちのギャンブルというだけではなく、もっと幅広い人々が楽しめるレジャーにしていこうとさまざまな改革が行なわれた時期のようです。今週から、僕が実感した日本競馬の“進化”についてお話ししようと思います。
1981年にジャパンカップが創設、翌年騎手養成のための競馬学校が開設されます。1期生は柴田善臣さんや石橋守先生など、2期生が横山典弘さんや松永幹夫先生など、そして武豊騎手や僕が3期生です。3年間、実技だけでなく一般の高校生と同じような学科や馬に関する知識なども含めてみっちり教育を受けました。
一方、当時はまだ馬事公苑の騎手養成所で勉強してきた人もいて、一緒に研修を受けたこともありました。20歳を過ぎている人も多かったので当然なのですが、喫煙も飲酒もできるのでびっくりしたものです。僕らは高校生ぐらいの年齢ですが、馬事公苑生は「大人」。そういう不思議な時期でした。
若手ジョッキーの頃、GIの時以外は関東と関西の行き来がほとんどありませんでした。馬券もGIこそ全国発売でしたが、それ以外のレースはそれぞれの地域でしか買えなかったようです。関西の競馬も気にはしていたし、同期の武豊騎手の活躍ぶりは耳に入っていましたが、レース映像をリアルタイムで逐一見るということはなく、少しして結果だけが入ってくる感じだったでしょうか。情報量が本当に少ない時代でした。
僕自身、デビューして2年間は、中山、東京、福島、新潟と関東圏の競馬場でしか騎乗がありません。3年目に1日だけ阪神競馬場に行ったのが関西圏での初体験で、京都競馬場での騎乗はその2年後までありませんでした。