「転身」を考えた過去も
1974年には大河ドラマ『勝海舟』の脚本を依頼される。
だが、30代の有望なライターはここで躓く。資料の読み込みなどに半年を費やし、台本の5分の3ほどを書き上げたところで、NHKの演出側とぶつかったのだ。台本を断りなく書き換えられたりしたことで、両者の間では軋轢が生じていた。
「あの頃、ものすごく冴えていたんですね。と同時に、驕りというようなものも自分の中にあったんだと思う。だから、必要のない衝突を繰り返しちゃったわけです」
札幌へ逃避し、原稿を送り続けたが、溝は埋まらず、倉本は放送途中に降板を余儀なくされる。
「もうシナリオライターを続けられるとは思わなかった。それで札幌でタクシーの運転手になろうと思ったら、北海道の連中が『あんたの顔はタクシー向きじゃない。トラックのほうが儲かる』と言う。実際、中古のトラックを買うつもりで、教習所にも申し込み用紙を取りに行きました」
しかし、このとき北海道で絶望を味わい彷徨ったことで、倉本の人生は大きな弧を描いて新たな道を示し始める。周囲もまた有望な脚本家を放ってはおかなかった。
40歳を迎えた1975年には『前略、おふくろ様』(日本テレビ系)がスタート。萩原健一、桃井かおり、梅宮辰夫といった役者陣を揃えたドラマは一世を風靡し、板前ブームを巻き起こした。
そしてその2年後、倉本は北海道・富良野へと移住し、ゼロから荒れ地に家を建て出し、少しして『北の国から』(フジテレビ系)に取り組み始めるのだ。