●語り方その4「スポンサーもテレビ局もそっぽむくから、もう終わりじゃないかな」
そんなふうに悲観的な見通しを語るのが好きな人もいます。自分としては客観的に冷静な分析をしているつもりでも、言葉の端々に「華やかに成功している人がどん底に落ちていく様を見てほくそ笑んでいるみっともなさ」が見え隠れせずにはいられません。
●語り方その5「べつにどうでもいいよ。マスコミはこんなことを報じていないで、もっと大事な問題を報じるべきだろ」
ごもっともではあります。「中居? ああ、いたねえ」みたいな言い方をする人も。世俗の話題をバカにして「自分はお前らとは違う」と言いたい気持ちはよくわかりますが、狙いとは裏腹に「その選民意識の安っぽさが見えてしまうみっともなさ」をにじませることになるでしょう。そして、そういう人に「もっと大事な問題って何?」と尋ねても、言葉に詰まるか、政治方面のどうでもいい話を出してくるのがオチです。
こうして見ていくと、どんな語り方をしても、何らかの「みっともなさ」と無縁ではいられないようです。情報とスマートに付き合うのは、なんて難しいのでしょうか。語らなければ大丈夫という問題でもありません。巷にあふれる情報を受け止めて、そのまま自分の中にため込んでいたら、やがてドロドロになって異臭を放ち始めるでしょう。なるべく情報に触れないか、きれいな情報にたくさん触れて浄化するしかありません。
そして、言われる前に自分で言ってしまいますが、人様の語り方についてあれこれ言っているこのコラムは「もっともらしく意味を見出してはいるけど、実は旬の話題をネタにしたかったというみっともない魂胆」が見え見えな点など、多くのみっともなさをはらんでいます。せっかく気持ちよく語っていたのに、水を差された方も多いでしょう。申し訳ありません。
情報のあふれっぷりに警鐘を鳴らすつもりで書いたコラムが、余計な情報の増加に加担してしました。世の中も人生も、ままならないものです。なお、自己批判したことにより、今後の執筆活動についても支障なく続けられることになりました。