米軍の艦砲射撃で山の形が変わった
小笠原諸島最大の硫黄島は亜熱帯気候に属し、冒頭のように「日本人の日常」とは切り離された場所だ。本州の都心部と、グアム島のほぼ中間地点にある硫黄島は、戦時下では日本にとって本土防衛の要衝であったと同時に、米軍にとっては本土上陸の足がかりだったため、激戦地になった。
戦争末期の1945年2月に米兵が上陸してから5週間の間に、日本兵約2万1900人が犠牲になり、島に残って軍の手伝いをさせられた島民93人も命を落とした。米兵も約6800人が死亡した。死者のうち約1万人は、遺骨が回収されないまま彼の地に眠っているとされる。島のシンボルだった摺鉢山は、米軍の艦砲射撃によって形が変わってしまうほどだった。
激しい戦禍に見舞われた硫黄島には、島外からの定期便は存在せず、観光目的の民間人は立ち入れない。旧島民の訪問が、訪島事業、墓参り、遺骨収集などで許されるのみだ。そのため、多くの人の戦争の記憶からこぼれ落ちそうになっているのが現状なのだ。
「ただでさえ、年を追うごとに戦前生まれの人は減り、戦争体験の語部は限られています。平和を希求される両陛下は、硫黄島で起きた悲劇が歴史の陰に隠れてしまうことを憂い、硫黄島訪問を希望されたといいます」(宮内庁関係者)
陛下は一昨年の誕生日会見で、硫黄島について次のように言及された。
「大変悲惨な戦闘が行われ、また多くの方が亡くなられたことを、私も本当に残念に思っておりますし、このような硫黄島も含めて、日本各地でさまざまな形で多くの人々が亡くなられている。こういった戦争中の歴史についても、私自身、今後ともやはりいろいろと理解を深めていきたいというように思っております」
硫黄島へは1994年に、上皇ご夫妻が慰霊のため足を運ばれた。戦後50年を翌年に控えるタイミングだった。
「平成時代の“慰霊の旅”の一環でした。硫黄島に降り立たれた上皇ご夫妻は、灼熱と水不足で苦しんだ犠牲者のため、柄杓で慰霊碑に献水されました」(別の皇室記者)
だが、検討されている両陛下のご訪問は、その上皇ご夫妻の訪問時とは大きな違いがある。
「上皇ご夫妻は、硫黄島訪問の後に、小笠原諸島の父島で2泊されました。一方、今回の両陛下のご訪問は、日帰りが検討されています。さまざまな公務やお出ましが控え、多忙が予想されるからでしょう。雅子さまのご体調への不安があるなかでも、日帰りという“強行スケジュール”が敷かれるのです」(前出・宮内庁関係者)
皇居を出発された両陛下は、自衛隊機を使用して小笠原諸島へと向かわれる。具体的なルートはまだ定まっていないが、一般的な旅客機を使う普段の地方や海外訪問と異なり、不慣れな自衛隊機の負担は大きいだろう。
いざ辿り着いた4月の硫黄島の最高気温の平均は25℃を超え、夏日の様相だ。その暑さのなかで祈りを捧げられた両陛下は、その日のうちにまた自衛隊機を使って皇居へと戻られる。1日で、空路およそ2500kmもの長距離移動だ。
「雅子さまが日帰りでも硫黄島訪問を望まれたのは、戦争の痛ましい記憶をいつまでも心にとどめたいというご覚悟からなのでしょう」(前出・宮内庁関係者)
そのお気持ちは、犠牲者の魂にも、いまを生きる日本人の心にも、必ず届く。
※女性セブン2025年2月13日号