室井滋さんは多くの著作を持つ
世の中の空気を無視して生きることはできないが、時に考え込んでしまう瞬間もあるのではないか。コラムニストの石原壮一郎氏が指摘した。
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「女優でいいじゃんって思います。私は。今さら俳優って言われてもなぁと思うし。女優のほうが、女が優しいって書いて、響きもいいじゃん」
先日、女優であり作家である室井滋さんが『女子SPA!』のインタビューで、女優と呼ばれることをどう思うかと尋ねられて、こう答えました。さらに続けて「ほかの言動にしても、いまって、誰に気を使ってるのか分からないようなコンプラ問題がたくさんありますよね。私なんて、あちこちでしょっちゅう注意されちゃう(笑)」とも。
いやもう、まったくおっしゃる通り。室井さんの「女優でいいじゃん発言」は、たくさんの共感を集め、大きな反響を巻き起こしています。ネット界隈を見わたしたところ、「そんな意識が低いことでどうする!」といったお叱りの声は見当たりません。
「性別によって呼び方を変えるのは差別だ」と主張され始めたのは、30年ぐらい前からだったでしょうか。まずは「スチュワーデス(スチュワード)」が、「客室乗務員」や「キャビンアテンダント(CA)」になります。続いて「保母(保父)」が「保育士」に、「看護婦(看護士)」が「看護師」に変わりました。
逆に「男性に限定している表現」も、同じように規制されています。コラムなどを書くときに、今は「ビジネスマン」という言葉は使えません。「ビジネスパーソンにしてください」と言われます。「キーマン」も、いつの間にか「キーパーソン」になりました。「イエスマン」が「イエスパーソン」になるのも時間の問題……かな?
「スチュワーデス」「保母」「看護婦」の迫害が日本の凋落を招いた!?
もちろん性別による差別もほかの差別も、絶対にあってはなりません。染み付いた無意識の差別意識にも、十分に気を付けたいところです。しかし、映画を観て「あの女優さん、素敵だったね」と言ったり、看護婦さんを看護婦さんと呼んだりするのは、そんなにいけないことなんでしょうか。「女性差別だ!」と糾弾されなければならないのでしょうか。
性別で呼び方を分けないほうがいいという考え方は、十分にわかります。「性別による役割意識」だとか「ジェンダーバイアス」だとか、己の意識の高さを示したい人たちにしてみれば、その手の「わかりやすい正義」を振り回すのは、さぞ気持ちがいいでしょう。
しかし、「女優って響き、好きなんだけどなあ」「スチュワーデスさんのほうが親しみを感じるのに」という気持ちを押しつぶそうとしてくるのは、大きなお世話です。「多様性」という言葉を使いたがる人ほど、多様な価値観や生き方を認めず、自分の考える「正しさ」の枠に押し込めようとする傾向があると言えるでしょう。
「スチュワーデス」や「保母」や「看護婦」という言葉が迫害され始めた時期と、日本全体が元気をなくしていった時期は、ほぼ重なっています。もしかしたら、世の中全体が信念も覚悟もなく「スチュワーデス」や「保母」や「看護婦」をタブーにしてしまったことが、今の日本の凋落を招く一因になったのかもしれません。