民営化直前の国鉄東京駅改札口(1987年3月9日、時事通信フォト)
日本初の自動改札機(阪急)
昭和の駅の音は「カチ」「カチ」「カチ」だった。
「カチ」は、切符に切り込みを入れる改札バサミの音。
「大阪駅にはタンゴのリズムで改札バサミを空打ちする駅員がいる」とか、「天王寺駅の音は8分の6拍子だ」とか、どうでもいい噂が流れた。
時代は移り変わり、駅の音は「カチ」「カチ」から「ピッ」「ピッ」というICカードの電子音に変わってしまった。
大阪万博が開かれるちょうど3年前の1967(昭和42)年3月、日本で初めての自動改札機が、阪急電鉄の北千里駅(大阪府吹田市)に設置された。
改札のほか券売機まで、すべての機器が自動化された「世界初の全自動化駅」だった。万博の会場に近く、未来都市として建設が進む千里ニュータウンの中心部だったことから、“壮大な未来実験”として注目を集めた。
当時、鉄道駅の抱える大きな課題の一つが、改札口で人流が滞ることだった。特に朝のラッシュ時はひどかった。改札口を増やすのも限界があり、駅員の職人芸でスピードアップを図るしかなかった。
ここに目を付けたのが立石電機(現オムロン)だった。立石電機は近鉄と共同で自動改札機の開発を進め、導入へあと一歩というところまでこぎつけた。ところが国鉄線との乗り継ぎにどうしても対応できず断念したという経験があった。
次にチャレンジしたのが、開発が始まったばかりの千里ニュータウンだった。「これからの街には、これからの技術がふさわしい」と阪急電鉄と共同で、新設される北千里駅への設置を決めた。
ただ、クリアすべき問題点は残ったままだった。
切符と定期券に同時に対応できる自動改札機はまだできなかった。パンチカード方式の定期券用、バーコード方式の切符用、自動改札に対応できていない切符用の3種類の改札口をつくらざるをえなかった。
全自動化駅は華々しくスタートしたものの、トラブル続きだった。
切符用の自動改札機に間違って定期券を投入してしまうというようなトラブルの頻発はまだ想定内だった。
定期入れに入れたまま機械に投入してしまう人。
紙幣を投入口から入れてしまう人。
硬貨を投入口へジャラジャラと入れてしまう人。
今では考えられないような“初歩的なトラブル”が多かった。大きな荷物を抱えたり、赤ん坊を背負っている人を2人と読み違えて、自動改札機の扉が“ガシャン”と閉まってしまうアクシデントもあった。
駅員の手作業に頼っていたときよりも、処理能力は3~4倍高くなったが、トラブルへの対応のために、駅員が一日中改札口に張り付いていなければならなくなった。「全自動化のおかげで駅員を余分に配置しなければならなくなった」という皮肉な事態まで起こった。
駅に苦情が殺到してもおかしくない状況だったが、「お客様からのお叱りはほとんどなかった」という。
乗客のほとんどが、完成したばかりのニュータウンに入居した若い人たちだった。万国博覧会が開かれる街で近未来を体験しているという夢と希望にあふれていたからだといわれている。
北千里駅への設置を皮切りに、関西の私鉄では自動改札機の設置が急速に進んだ。さまざまな改良が加えられ、乗客が自動改札に慣れてきたこともあって、トラブルは急減していった。1975(昭和50)年末には、関西の五大私鉄と大阪市営地地下鉄への導入が完了した。
首都圏では、1971(昭和46)年に東急東横線の3駅で導入された。しかし、相互直通運転が多いことから、乗り継ぎのための切符の共通化などに手間取り、自動改札化は遅々として進まなかった。
首都圏で自動改札機が広がっていったのは1990年代からで、関西圏より10年以上も遅れてしまった。
(第5回に続く)