1974年『空港』で全国区の人気に
「アジアの歌姫」テレサ・テンさん(享年42)が亡くなってから今年で30年。数多の名曲に彩られた彼女の歌手人生の原点にあるのが、1974年に発表された『空港』である。人々の心に鮮烈な記憶を刻んだ名曲はいかにして誕生したのか。【前後編の後編。前編から読む】
台湾に生まれたテレサは、1967年、14歳で歌手デビュー。「天才少女」と注目され、一躍人気者に。数年後には香港や東南アジアでも成功を収めた。
元トーラスレコード社長で、テレサの「日本の父」として知られる舟木稔氏が語る。
「1970年代初め、すでにテレサは東南アジア諸国で大スターでした。ポリドール・レコードの制作管理部長だった私は、香港にすごい歌手がいることは聞いていた。1973年、香港で初めて観た20歳になったばかりの彼女のステージは、美空ひばりを彷彿とさせるものだった。逸材ぶりがすぐにわかった。『絶対に日本で歌ってほしい歌手だ』と直感した私は、香港滞在中に何度か連絡をして本人とお母さんに会ってもらい、『ぜひ日本でトライしてください』と説得しました」
日本デビューに猛反対していたテレサの父親を説得するため、舟木氏は台湾にも赴き、「日本で必ず成功させる」と約束して口説き落としたという。
1974年3月、テレサは『今夜かしら明日かしら』で日本デビューを果たすが、ほとんど売れず、不発に。
「日本での戦略はアイドル歌手路線。3万枚を出荷しても返品の山で、そんな状況に居たたまれなくなったテレサは『私の歌い方がダメなのかしら』とかなり悩んでいました。私も父親に約束した手前、これじゃ申し訳ない、と」(同前)