物語は四国のある「カッタイ寺」と近隣の村を舞台に展開されるのだが、差別は、する者の心もされる者の心も狂わせる。
〈親父は俺を家に置いておけば村八分にされると考えて、実の息子の俺を家族の前で殺そうとしたんだ(中略)癩になるってことは、人間として認めてもらえなくなるってことなんだよ〉。物語の中である患者はそのように打ち明け、別の患者は次のように自分を責める。〈癩だって前世に悪いことをした因果だっていうでしょ〉〈癩病者っていうのは、この世でのうのうと生きちゃいけない存在なの〉。
別の患者は森の小鹿を相手に性交していることを仲間の患者に詰(なじ)られ、こう反論する。
〈おまえは(中略)若くて、癩の症状もほとんど出てねえ同士で、堂々とオメコでもすりゃいい。でも、俺たちはそうじゃねえ。体が瘤で覆われ、手足の感覚がなくなり、指を失った俺たちを誰が相手にしてくれるっていうんだ〉
重く、激しい台詞が続くだけでない。肉の腐敗が目に浮かび、血の臭いが漂ってくるかのようなリアルな死体の描写も多い。実は物語は終盤に泣かせる展開を見せるのだが、作品のトーンは安っぽいヒューマニズムとは程遠い。
著者のブログによれば、「ヘンド」や「カッタイ寺」について10年前から取材や調査を始め、2年間、この作品の執筆に精力を注いできた。純粋なノンフィクションとして書くには材料が十分とは言えず、表現に制約があるためフィクションの形を選択したという。
2001年、ハンセン病訴訟は国と患者の間で和解が成立し、法的には終結した。だが、この作品は過去を描いたものとは言えない。人間の醜さも愚かさも、そしてそれでも消えない愛は普遍的なものであるはずだからだ。その意味で、今の物語として読まれるべき作品である。
※SAPIO2014年2月号