2月7日に開会式を迎えたソチ五輪。金メダルが期待されるフィギュアスケート選手たちが所属する日本スケート連盟副会長の鈴木恵一氏は、かつてプロ野球の西武ライオンズ球団職員として広報をつとめていた。スピードスケート選手時代は「世界のスズキ」として知られた鈴木氏について、スポーツライターの永谷脩氏が思い出をつづる。
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ソチに到着した日本人選手団の中に、懐かしい顔を見た。西武が1979年にクラウンライターライオンズを買収した球団創設期、広報だった鈴木恵一である。
現在は日本スケート連盟副会長という要職にある。前回のバンクーバー大会では、メダルを狙う加藤条治に「メダルを獲ったら、帰りの飛行機はビジネスクラスの俺と交代する」と言って、加藤が銅メダルを獲り、本当に交代しようとした。今回、7大会連続出場となるジャンプの葛西紀明が「メダルを獲って、帰りはビジネスで」と出発前に言ったのは、前回の鈴木の発言があったからだ。
鈴木自身、1967年から世界選手権で3連覇を収め、1972年の札幌五輪の時には選手団長を務めている。3度出場しながら、五輪ではメダルと縁がなかったが、「世界のスズキ」としてつとに有名だった。その男が球団広報としてやって来る──。プライドだけは高いはずと、選手は戦々恐々としていた。
案の定、鼻っ柱は強かった。監督だった根本陸夫に対して「西武には西武のやり方があります」と突っかかったし、阪神から来た田淵幸一には「電鉄としては西武の方が上」と西武流の流儀を説いた。広報よりマネージャーの臭いすらあったが、1986年に清原和博が入団した時、オーナー・堤義明に呼ばれ、「ウチの宝を命懸けで守れ」と言われたことで行動が一変した。
入団早々、清原は写真雑誌に、女性とラブホテルから出て来る場面を撮られてしまう。その時は1人で編集部に乗り込み、「選手のイメージを大切にして育ててくれ」と言って頭を下げ、女性と公園でブランコに乗っている写真に差し替えさせたこともあった。松坂大輔が不祥事を起こした際、“身代わり出頭”して物議を醸した黒岩彰(1988年カルガリー五輪・銅)にしてもそうだったが、西武の広報は選手を体を張って守る者が多い。