3.11東日本大震災の被災地、宮城・石巻市は、コラムニストの木村和久さんが高校卒業までを過ごした地。木村さんが、縁ある人々の安否を自身の足で訪ねながら、震災直後から現在の状況までをレポートします。今回は被災地で広がる、「震災遺構」という括りで建築物を残し、後世に津波の悲惨さ、恐ろしさを伝えようという動きについて。
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震災遺構についての考えは、それぞれ意見が分かれます。あまりに悲惨だった震災を思い出して嫌という意見もあります。
ちなみに大川小学校の校舎は、震災当時のまま保存されています。これは震災遺構という意味ではなく、現在進行形で行方不明者の捜索も続行しているし、今ようやく大川小学校の事故検証委員会から、最終報告案が出され、避難の意思決定の遅さを指摘されている最中です。地元の人々は、責任の所在が書かれていないと指摘し、今後もさらに議論を進める予定です。ですから校舎をどうするなんて話は、だいぶ先の話なのです。
大川小学校を後にして、以前も紹介した近くの「釣石神社」に寄ってみます。ここは受験のご利益がある神社で、今は受験シーズンゆえ、連日たくさんの人がつめかけています。何しろ落ちそうでなかなか落ちない巨石が、ご本尊ですから。幾多の大地震に耐えた雄姿をとくとご覧あれ。
巨石の脇には津波到達地点と書かれてあり、こんなところまで津波が押し寄せたんですね。個人的にはこういうスタイルで、地震・津波の怖さを代々伝えるのがいいと思うんですけど。石巻の震災遺構を見てから、今度は近隣の町の震災遺構を見に行きます。
ちょうど伯母さんの家に顔を出す予定があったので、女川町の震災遺構も見てみます。女川町はとてつもない巨大津波に襲われ、鉄筋コンクリートのビルがひっくり返り、3つほど街中に置き去りになってます。今は説明の案内版も設置され、さも保存されそうな雰囲気に見えますが、どうもいろいろ方向性が定まってないようです。
確かに鉄筋コンクリートのビルが津波で横倒しになるのは世界でも類をみない現象で、保存に値するという専門家の意見があります。ですが現実問題、保存に数千万円の予算が必要で、倒壊したビルにそのお金をかける必要があるのかと議論されています。
最終的にはいちばん小さい建物、女川交番ならなんとか保存できそうらしいのですが、建物が小さすぎて、これぐらいの建物で津波の恐ろしさを伝えることができるかは、はなはだ疑問です。しかも女川地区は、平均5m以上の地面のかさ上げ工事に取りかかっており、早急に決断を迫られています。