プロ野球がまもなく開幕する。実際の試合で喝采を浴びるのは、当然のことながら選手たちだが、その影で試合を司るのが審判。スポーツライターの永谷脩氏が、元セ・リーグ審判部長の田中俊幸氏の思い出を綴る。
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1990年代前半、ヤクルトがキャンプを張っていた米国アリゾナ州・ユマでのこと。最終日、1人の審判から頼み事をされた(12球団のキャンプ地には審判員も派遣され、ストライクゾーンの確認などを行なう)。監督になったばかりの野村克也と、記念撮影がしたいという。
「俺は畏れ多くて口もきけないから、一緒に頼んでくれないか」
頼みに行くと、野村は快く応じてくれたが、「アイツも偉くなったもんだ。ワシと一緒に写真を撮ろうなんて」と嫌味の一つを加えることを忘れなかった。「あの方はシーズン中からいつもそうなんだ。“お前、ワシに指図するのか”だからね(笑い)」
審判の名は田中俊幸、後にセ・リーグ審判部長を務める男である。田中は1959年に投手として南海に入団。2年間在籍したが、一度も一軍経験のないまま引退、審判に転じた。当時の南海では野村は主砲。確かに口をきける存在ではなかった。
審判としては、現役時代とは違うセ・リーグで1965年から2935試合に出場した。しかし1999年、巨人-中日戦で起きた井上一樹の捕球を巡るミスジャッジ。判定を覆さなかったが、この責任を取って審判部長を辞任し、同時に自らも引退を決めるなど、潔い一面もあった。
神宮球場での試合の帰りなど、渋谷にまだあった仁丹ビルの裏手にある居酒屋に立ち寄っては一緒に飲んだ。酒に酔うほどに、「審判である前に人間たれと言うけれど、審判は石ころと同じなんだよ」とよく言っていたものである。ストレスも多かったのだろう。野村に言わせると、「あれほど下手なヤツも珍しいが、試合の流れだけはしっかり作っていた」という評価だった。