今ひとつ調子の上がらぬ巨人は4月なかば、「キューバの至宝」と呼ばれたセペダを獲得したが、かつて大変な争奪戦が繰り広げられたのが「オリエント・エクスプレス」と呼ばれた台湾の至宝・郭泰源。スポーツライターの永谷脩氏が、当時の争奪戦のエピソードを綴る
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鎌倉の奥座敷に『琴』という小粋な小料理屋がある。私と坂井保之は、会うと必ずここで一杯飲み交わすのが常だ。坂井はかつて3球団の球団代表を務めた経験を持つ、プロ野球経営のエキスパート。今でこそ親しくさせてもらっているが、初めて会った時は大変だった。
約40年前、私は少年誌で「12球団こども会総めくり」という企画をやることになった。しかし広島と太平洋クラブ(現・西武)以外は相手にしてくれず、話を聞いてくれることになって訪ねた太平洋の球団事務所でも、約束の時間になっても誰も出てこない。たまらず大声を出したら、裏から坂井が飛び出してきた。
太平洋は慢性的に資金繰りに苦労していた球団で、正直「こども会」どころではなかったはずだ。しかし坂井はこう言った。
「活きのいい兄ちゃん。それだけ言うなら何かいいアイデアがあるんだろう。言ってごらん」
当時は少年野球マンガ全盛だったので、『一球さん』(水島新司)の使っていた帽子を、実際の試合で被るのはどうでしょうかね、と言うと、「そりゃグッドアイデアだ」と手を叩いて喜んでいたのを覚えている。坂井に褒められるのは嬉しかった。
この一件の後、坂井とは何でも話せる関係になった。実はこの頃、私は江川卓を追っており、ライオンズとは微妙な関係だったが、坂井は違った。ある記者が、「なぜ永谷だけ許すのか」と聞いた時、坂井が「彼の行動はお前らとは違う」と言ってくれたのも、また嬉しかった。
だが命をかけた仕事となると、事情は別だった。球団の親会社が西武に変わり、坂井はそのまま球団代表に就任。その後、西武は1984年のロス五輪に出場した郭泰源にいち早く目をつけ、巨人との熾烈な獲得合戦に突入する。台湾のエースを巡る情報戦では、坂井は本音を喋ろうとはしなかった。ただ1つ、内緒で教えてくれたのは、台湾チームよりも1日早く所用で台北に帰る、泰源の兄が乗る飛行機の時刻だった。