彼の喉は高貴な人々をも魅了し、三味線の名手だった後の妻・お浜と編み出した斬新な節回しは伊藤博文や有栖川宮妃殿下が屋敷に彼を招いて聞き惚れたほど。その前段の不遇時代、20代の彼が旅に身を窶す第一部「彷徨」から物語は始まる。

〈「おいっ、小繁っ」〉と、まるで落語を思わせる会話の主は「吉川小繁」時代の雲右衛門と、横浜の顔役・澤野巳之助。小繁は明治9年、祭文語りの父と三味線弾きの母の間に高崎で生まれ、父が死んだ後は芝新網に身を寄せた。四谷鮫河橋、下谷万年町と並ぶこの貧民窟は特に芸人が多く、講釈師やちょぼくれたちの芸を耳で聞くうち彼も自分なりの節を身に着けたが、今一つ芽の出ない小繁に、巳之助はいっそ旅に出ることを勧める。

「諸説あるが、浪花節は屑拾いや門付芸人が集っていた芝新網町の混沌から生まれ、各々が勝手に語っていた関東節を、浪花亭駒吉が形にしたのが名の由来らしい。面白いのは関西でもこれと似た浮かれ節の人気が出てくるが、雲右衛門が宮様から御製まで下された事件に世間が驚いたのも、庶民すら卑下した最下層の芸が雲上人を魅了した落差を考えないと説明がつかないんです。そうした差別感情を従来の研究は妙に避けている節があるので、あえて逃げずに書きました」

 信州へと旅立った小繁は中京の重鎮・三河家梅車の妻・お浜が三味線の名手と聞き、早速梅車に弟子入りするが、夫の暴力に苦しむお浜と駆け落ちする格好に。東京では芸名を名乗ることを禁じられ、大阪でも食い詰めて逃げ帰る道中、ふと閃いた名が桃中軒。つまり沼津の駅弁屋の名だった!!

 そして孫文が第一次挙兵に失敗した7年後の明治35年、滔天が弟子入りしたことで運命は大きく変わる。

 玄洋社に金銭を含む全面援助を仰いだのも滔天なら、炭鉱夫や沖仲士の多い九州を拠点に選び、〈これからは新聞と映画の時代です〉と言って記事を書かせたのも滔天だ。が、滔天にしろ、彼が参謀役に据えた末永節にしろ、結局は雲右衛門の下を去る。浪花節不毛の地九州から東へ攻め上る自分たちを〈足利尊氏〉に準(なぞら)え、貧しい中で夢を語り合った蜜月の短さが何とも儚い。

「滔天は成功した雲右衛門と喧嘩別れしたとも言われますが、僕はそんな単純な話じゃないと思う。成功すればするほど取巻きが増えるのを見て、自分たちの夢は達成されたと、末永にしろ判断したんだろうと。つまり雲右衛門の置かれた立場が変わっただけで、人間の本質はそんなに変わらない。でなければ結核で倒れた雲右衛門を滔天がわざわざ看取るはずがありません」

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