表現の自由か、宗教への冒涜か。仏・新聞社「シャルリー・エブド」襲撃事件は、風刺画の掲載の是非を巡り、世界中で波紋を広げている。が、本来取り沙汰されるべきは、「テロ撲滅」への施策であるはずだ。問題設定を間違えると道を見失う、と、作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏は危機感を覚えている。
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筆者は、擬似争点に関心をとられると問題の本質を見失うと考える。擬似争点とは、禅問答の「ウサギの角の先は尖っているか、それとも丸いか」というような命題だ。ウサギには角がない。存在しない角の先の形態について議論をすること自体に意味がない。
今回のテロ活動を巡って、風刺画掲載の是非について議論すること自体に筆者は意味がないと考える。
今回の3人の犯人は、「ムハンマドを戯画化するな」という主張を掲げてテロを起こしたわけではない。
彼らの要求は、〈フランスが、今戦っている「イスラム国」やイスラムと戦っている場所から手を引くこと〉である。言論に関する要求を行っているわけではない。
「イスラム国」としては、国際世論に衝撃を与えることができるマスメディアならば、「シャルリー・エブド」でなくても標的はどこでもよかったのだと思う。フランスならば、「ル・モンド」紙やAFP通信社を襲撃して、無差別殺人を行っても、目標は達成できたはずだ。
ただし、「ル・モンド」紙やAFP通信社は警備が厳重なので、襲撃が失敗する可能性がある。警備状況による襲撃の難易度と社会的影響を比較考量して、テロリストにとってコストパフォーマンスがよい「シャルリー・エブド」紙を狙ったのだと筆者は見ている。
「表現の自由か、信仰心の尊重か」という議論は、イスラムの信仰に対し、欧米のマスメディアがより配慮した姿勢を示すと、テロの原因が除去されるという誤った方向に世論を誘導する危険がある。
この問題で国際社会が混乱すると、その隙を衝いて、「イスラム国」はテロによって政治目的を達成しようとする。
イスラム過激派に配慮して、全世界の新聞や雑誌がムハンマドの風刺画を掲載することを止めても、「イスラム国」に共鳴するテロリストは、ヨーロッパ、ロシア、アメリカなどでテロ活動を続ける。テロリストに対する譲歩は一切必要ない。