タモリは大学を除籍になって故郷の福岡に帰り、生命保険の勧誘員、ボウリング場の支配人、フルーツパーラーのバーテンダーと職を転々とし、その間、保険会社の同僚だった女性と結婚した。そして、福岡に公演に来ていた山下洋輔と半ば偶然、半ば必然に出会い、その勧めで上京すると赤塚不二夫に可愛がられ、お笑い芸人としてデビューした。
タモリの芸は当初、ブラックな要素のある「密室芸」だったが、1982年10月から『笑っていいとも!』の司会を始めるようになると、自分は一歩身を引き、周囲の面白さを引き出す「受け身の芸」へと転換した。
やがてマンネリ化し、文化人などからは「小役人のよう」「お笑いの区役所」などと批判されたが、タモリ自身は自分を「国民のオモチャ」だと自覚した。
〈それ(注・カウンターカルチャーなど)も消費社会の成熟にともない資本に取り込まれ、CMやテレビ、ラジオ番組などを通じて消費されていく。どちらかといえばカウンターカルチャー、サブカルチャー寄りの芸人だったタモリが(中略)「国民のオモチャ」を自称するまでにブレイクを果たした理由には、そうした時代背景も見逃せない〉
タモリは、あらゆるものを商品として消費する資本主義の最前線を泳ぎ続けたのである。
著者によれば、30歳のときに笑いの道に入ったことと、『笑っていいとも!』を終了させたことだけが、タモリが自らの意思で行ったことだというまるで昭和天皇の聖断だと思ったら、直後の文章でそう書かれており、思わず膝を打ったが、自らの意思でその2度目の決断を下せたことは、タモリが消費という荒波に溺れなかったことを物語っているのではないか。
本書はタモリの内面に迫ることを目指してはいないが、タモリが自覚的に「国民のオモチャ」を続け、時代を映す鏡に徹したことがよくわかる。そして、どれだけ売れても自分を相対化し続けられたことにタモリの本当の凄みを感じさせられるのである。
※SAPIO2015年11月号