そこで密航斡旋業者の力を借りてタイ領に入った。長距離バスの貨物室に十数時間もカンヅメにされる過酷な移動の末、ようやくバンコクに辿り着いたのは昨年2月19日だ。
現地には古くから華僑が多く、近年亡命した民主化人士や法輪功の信者も大勢が暮らしている。だが、顔氏を驚かせたのは、東南アジアの大国・タイにも中国共産党の魔手が及んでいることだった。
「こちらの中国人社会にも多数のスパイが混じっていたのです。亡命者の生活は苦しく、買収されて仲間を売る者も少なくない。中国民主党(※注2)の関連組織の内部にすら、中国当局の内通者らしき人物が複数送り込まれているようでした」
【※注2/1998年に中国国内で結党が提唱された民主化運動組織。現在は内部分裂や分派活動が激しく、全体としての統一は取れていない】
事実の確認は困難だが、顔氏らが亡命後も疑心暗鬼の生活を送っていることは間違いない。現在もなお、身元不明のタイ人や中国人にしばしば尾行され、経済的にも苦しい状況のなかで転居を繰り返す日々だ。故郷の家族との連絡も、泣く泣く断っているという。
また、対中関係を重視するタイの軍事政権はもちろんのこと、難民申請を受け付ける国連難民高等弁務官事務所も、中国人亡命者には冷淡だ。「五大国」の一角を占める中国を刺激することに、国連は及び腰である。
「タイにいる限り、スパイによる密告と強制送還に怯える生活。しかし陸続きの周辺国にもすべて中国の息がかかっており、第三国への再亡命も困難なのです」
今年3月7日、そんな現状に業を煮やした中国人亡命者の黎小龍氏が、家族を連れて海路で再亡命を図った。だが、船が遭難してタイ当局に捕捉され、そのまま中国に強制送還されている。顔氏もいつ、黎小龍氏と同様の境遇になるかはわからない状況だ。
●やすだ・みねとし/1982年、滋賀県生まれ。立命館大学文学部(東洋史学)卒業後、広島大学大学院文学研究科修士課程修了。在学中、中国広東省の深セン大学に交換留学。主な著書に『知中論』『境界の民』など。公式ツイッターアカウントは「@YSD0118」。
※SAPIO2016年6月号