ジャーナリスト、宮下洋一氏によるSAPIO連載「世界安楽死を巡る旅 私、死んでもいいですか」。精神病患者の安楽死事例には、大きな反響が寄せられた。本連載を通じて安楽死への認識を深めていた読者の中にも、精神的な揺れ幅のある患者に安楽死を許すことは、安易な自殺を助長しまいか、といった疑問を抱いた人が少なくなかったようだ。
実は、その種の議論は、現在安楽死が認められているベルギーでも盛んに取り沙汰されていた。では、なぜ同国で精神病患者への安楽死が許されるようになったのか。筆者は、そのきっかけとなった、ある事件に辿り着く。
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今回は、安楽死ではない方法で死を遂げたベルギー人女性の物語を綴る。彼女は精神を長く患い、2011年、34歳にして人生の幕を閉じた。彼女の死後、遺族である父が深夜のトーク番組に出演し、娘の悲劇を告白した。
国によって規準はやや異なるものの、安楽死の条件は2つあると言われている。一つは不治の病であること、二つ目は耐えがたい痛みを伴うこと。解説者として番組に出演した精神科医は、彼女の精神疾患がこの二点に該当すると断定した。結論から言えばこの番組を契機に、同国では精神病患者の安楽死に対する理解(*1)が広まっていく。
【*1:ベルギーでは、2002年から安楽死が法的に認められるようになった。法的に、精神疾患患者の安楽死を禁ずる条項はなかったが、倫理的な問題としてそれを実行する医師はほとんどいなかった】
◆マスクを被って生きてきた
1976年11月24日、コンゴ(当時の国名はザイール)の首都・キンシャサ。父のピエールと兄姉2人、そして親戚一家を合わせた10人が小さな分娩室に集まり、「アレー・マーディー(頑張れ、マディー)」を連呼する中、エディット・ビンケは誕生した。今は亡き次女の誕生を、ピエールは思い返す。
「エディットが生まれた時はもう、嬉しくて、嬉しくて」
ピエールの父がベルギー領コンゴ(1960年ベルギーから独立)で医師だったことから、ピエールの半生はコンゴが主体となる。彼は、コンゴ政府に専属研究員(ダニ研究に携わる生物学者)として20年近く雇われた。
エディットが首都のキンシャサで育ったのは、彼女が3歳になるまでで、「ほとんど記憶にないのではないか」と兄のグレゴワールは言う。ピエールは、幼少期の彼女について、「落ち着きがあって、よく寝る、優しい可愛い子供だった」と目を細めて語った。
1979年、ビンケ家は西アフリカのセネガルに引っ越した。エディットは、子供の頃から、動物をこよなく愛した。セネガル時代の彼女は、ネズミが大好きで、どこへ行くにもネズミを伴った。
彼女は大学に進学する頃まで、セネガルのリセー・フランセー(フランス学園)に通うことになる。ただし毎年、7、8月は、ベルギーのラミリー・オフュ村で夏休みを過ごしてきた。ここにはビンケ夫妻の親戚家族がいた。