◆「どんなやり方でも死ぬからね」
2005年になると、エディットは、社会生活を営むことが、もはや不可能になっていく。彼女は父に、「精神病院に連れてって」と懇望した。彼女は自室で何度も自殺未遂を図り、コップを割って、ガラスの破片を飲み込む騒ぎも起こした。手首には、数えきれないリストカットの跡も残していた。
自宅から約70km離れた精神科病院で、彼女は6年間、隔離生活を強いられた。これは彼女自身の希望だけでなく、「家族の生活にも危険が及ぶ可能性がある」という法的な措置でもあった。
精神科病棟では、精神安定剤を毎日、服用しなくてはならず、エディットは別人のように変化していった。ピエールは、週に1度のペースで、面会した。その頃の、娘の虚ろな表情は、現在でも脳裏に焼き付いたまま離れない。
「パパ、私って、まるで植物状態よね。ねえ、パパ、科学者だったら、簡単に死ねる方法を教えて。どうすればいいの。それができないんだったら、私はどんなやり方ででも、死ぬからね」
彼女は口元からよだれを垂らし、父親に向かって訊いた。だが、ピエールが、自分の娘を死に至らすアドバイスなど、告げられるはずがなかった。
精神科病院には、他にも彼女のように死を求めている若い患者たちがいた。だが、当時の風潮に加え「カトリック系の病院であるという宗教上の理由が、彼らの安楽死に対する願望を無条件に妨げました」と、ピエールは言った。
一定期間の精神科病院生活を終えたエディットは実家に姿を現すこともあった。ピエールは、外に散歩に連れ出したり、レストランで食事をしたり、気分転換させるよう努めた。そして、彼女が幼少時可愛がっていたネズミ30匹を自宅で飼うことも決めた。
こうした時間を彼女は楽しみ、時には、「過度の幸福状態になることもありましたね」と父は話す。精神科病棟の話を口にすると、エディットは、小声で「パパ、あそこにはね、おかしな人ばかりいるのよ」と答えたという。
まるで、自分とはかけ離れた世界であるかのように語ることもあった。しかし、この状態は継続しなかった。