自分の「最期」について考えるとき、最も身近な“お手本”となるのは、両親が亡くなった時のことではないだろうか。厳しかった父、優しかった母はどうやって人生を締めくくったのか──。フリーアナウンサーの生島ヒロシ氏(65)が、「母の死」に際して見たこと、学んだことを明かす。
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お袋は2011年2月2日に85歳で亡くなりました。老衰でした。誕生日は1月1日。ゾロ目に縁があったんでしょうね。
僕は親父を早くに亡くしているんです。豪放磊落で陽気な酒飲みだった親父は、僕のアメリカ留学中に、大腸がんを患いました。元々はガッチリした体格だったけど、僕が帰国した時にはすでに痩せ細っていました。
当時、僕のTBS入社が決まっていて親父は喜んでくれたけど、その後、入院して2か月で他界してしまった。53歳の若さでした。
その後、お袋は宮城県気仙沼市で古くから祖母と営んでいた定食屋を閉めました。僕は長男だから、3つ下の妹と17歳離れた弟の父親代わりとして家族を支えることになった。TBSに勤めながら、家族への仕送りは欠かしませんでした。
お袋は「子供の世話にはならない」というのが口癖でしたが、晩年は気仙沼で妹夫婦と同居していました。心臓が悪く、65歳の時から心臓に弁を入れていて、妹夫婦と親戚たちが最後までよく面倒をみてくれました。
お袋の容態がいよいよ悪くなったとき、従兄弟が病院から僕に電話をかけてきて、お袋と話しました。
そのとき、お袋は「ヒロシ、本当に本当にありがとうね」ってしみじみと感謝の言葉をくれたのです。若いときから父親代わりとして働いて家族を一生懸命支えてきた僕は、その言葉を聞いて胸が熱くなりました。
それが最後に交わした会話です。電話の翌日、お袋はこの世を去りました。看取った妹は、「苦しまず安らかに息を引き取った」といっています。死の前日に最後の別れができて本当によかった。