りえは娘について、《彼女との時間は絶対大切にしたい》《2人でいられる時間はお互いにとって濃厚な、1ページを重ねるものにしたい》と過去のインタビューで語っている通り、舞台の稽古などへも連れて行き、できるだけ一緒に過ごすようにしているという。
りえと母が完全に一緒に住み始めたのは、小学4年生の時。その後、中学2年生になった1987年、状況が一変した。この年、住宅メーカーのCMに出演したりえが一躍、国民的アイドルとして大ブレークしたのだ。
光子さんは、それまで所属していた事務所から娘を独立させ、自らが新事務所の社長に就任した。以降、りえの全プロデュースを担当する、“ステージママ”として業界に君臨した。りえも“ママ”に認められようと必死になった。ヘアヌード写真集も、貴花田との婚約白紙も、すべて“ママ”の思いに応えた形。ふたりは“一卵性母子”と呼ばれた。
「光子さんは恋愛にすべてを捧げるか、娘にすべてを捧げるか、という両極端に偏る人だったのかもしれません。そこにりえさんは寂しさを募らせてきた。だからこそ娘を出産して母と同じ道は歩まないと思っていたんでしょう。でも今、その母と同じシングルマザーという立場になって、恋愛して…。結局、自分も娘に寂しい思いをさせてしまっている状況になってしまった。愛情に変わりはなくても、彼と旅行せずにはいられない自分…逡巡していると思います」(前出・芸能関係者)
※女性セブン2016年11月17日号