竹原のファンだという古舘は、彼の歌を聞いていて涙したと言いながら、下から上へ、手前から向こうへと手を動かし、その時に込み上げてきた感情を、手振りで表現した。
言いたいことや伝えたい感情を、話ながら動作や仕草で補足するのは「例示的動作」という。古舘の例示的動作は多種多様で大きく、スピーディーに動かし続けるのが特徴。だから、見ている人を飽きさせない。同時に、自分の気持ちや感情を交えて自己開示することで、相手が自分の話に耳を傾けてくれるようにしているのだ。
質問した時は、前のめりになって手の平を上に向け、口を開けたままで、答えを待った。これは、さあ話して、どんな答えでも待ってますよ、どんな言葉でも取り入れますよ、と相手に対する期待を暗に示している仕草だ。姿勢、手と口の動きを無意識のうちに察知した相手は、これで安心して話すことができる。
次に古舘は、竹原の特徴的な仕草を指摘し、たまらないと表現した。いやぁ、このつかみの上手さ、たまらないのはこっちだ。
ハイトーンで歌い上げると、竹原の左の上唇に力が入ってキュッと上がるらしい。それが、苦しげに歌っているようでセクシーだという。相手の細かい表情の変化も見逃さない観察力もさることながら、その仕草にグッとくると伝えるとは…。好意を伝えられれば、誰しも話に熱が入るだろう。
さらに古舘は、歌詞のフリップを出した。話が一段落すると、突然「正対してくれる、それだけでグッとくる」。話し始めは、斜め45度ぐらいの角度で座っていた二人。話がのってくると少しずつ身体が向き合うが、足はまだ相手の方を向いていない。身体も足もまっすぐ互いに向き合ったのは、確かにフリップで歌詞の話をした後だ。
フリップという小道具があったとはいえ、竹原が自らまっすぐ向いてくれた。古舘が言ったのはそういう意味だが、よく見ると、ここに彼の巧妙なテクニックがある。
古舘は相手が自然と自分の方を向くように、フリップをカメラに向かって手前ではなく奥に構えたのだ。フリップを見るには、ほんのわずかだが、カメラに背を向ける格好になる。当然、足も相手に向けないと身体が捻じれてしまうため、自然と椅子を回すことになる。おのずと、互いに対面する形にせざるをえない。
相手を自分に向けさせ、自分の方に引き込む。それも相手が自分からそうしたように仕向ける。意識的なのか、しゃべりの本能からくる動きなのかはわからないが、なかなかニクイ手を使う。
その後、古舘は竹原より足を広げていた。ちょうど、竹原の両足が、古舘の足の間に挟まれる格好になっていたのだ。“相手の心を手中に収めた”、古舘の無意識はそう感じていたのかもしれない。
表情、姿勢、身体の向き、話の最中でも相手のわずかなボディランゲージの変化に気がつくのは、自分がそれを意識してしゃべっているからに他ならない。相手の心や感情のわずかな動きも読みながら、言葉のシャワーを浴びせかける。古舘のしゃべりは、やっぱりすごい。