相撲協会には外国出身者は一部屋に一人という規定があるのだが、間垣部屋ではロシア出身の若ノ鵬が大麻所持で逮捕・解雇され、その後入門した中国出身の若勝獅もやめてしまった。そこに、入門を希望しモンゴルから来日したが受け入れられる部屋がなくいったん帰国、再来日して鳥取城北高校に留学していたガントルガ・ガンエルデネが二〇一〇年に入門。四股名は若三勝、のちの大関・照ノ富士の誕生である。
親方の体調の悪化と経営難から間垣部屋は閉鎖され、駿馬と若三勝、呼び出し勝尚(現・照矢)は伊勢ケ濱部屋に移籍する。間垣部屋の最終期はちゃんこも満足に食べられなかったという。しかし、若三勝が出世したから言えることではあるが、間垣部屋への入門は悪いことばかりではなかった。
間垣部屋の外国人枠がなければ力士になれなかったし、伊勢ケ濱部屋に吸収されて日馬富士のシャープな相撲、安美錦の器用さを学んだ。横綱・日馬富士をして「前みつをつかんだら絶対に負けない、勝負が終わったと思わせる。あこがれの相撲」と言わしめた元幕内・安壮富士の杉野森清寿コーチ(安美錦の兄)の指導もある(日馬富士は、安壮富士と青馬の相撲を足して二で割ったのが自分の相撲だという)。
日馬富士と安美錦だけでなく宝富士や誉富士(今後暴れん坊になるかもしれない照強も)など、タイプの違う力士との稽古はふんだんにでき、しかも対戦は組まれない。そしてなにより、駿馬という無二の兄弟子との出会い。新弟子時代には駿馬の胸で相撲の基礎を覚えた。
強くなった今は取組に勝って駿馬の胸に飛び込む。日馬富士の援護射撃により初優勝、大関昇進も確定した二〇一五年五月場所千秋楽。支度部屋の隅で駿馬、照矢と抱き合って泣いた、という記事にはもらい泣きしてしまった。