日大では「大学当局」「治安当局」と同じ側に「運動部の学生たち」が加わっていたというのだ。それは「古田会頭が学生時代に柔道部主将として活躍した経歴が影響した」(同前)と考えられている。全共闘の学生と衝突する体育会系学生の姿は当時の新聞にも記録されている。
〈学生約四千人が集まり(略)学校側に“大衆団交”を要求して集会を開いた。ところが、体育会系の学生が同校舎三、四階の窓から消火せんの水を放出、集会を邪魔した〉(読売新聞1968年6月11日付夕刊)
〈体育会側は入り口のシャッターをおろし、上からイス、机、灰ザラ、牛乳ビンを投げつけ、共闘会議も激しく投石〉(同12日朝刊)
こうした記録によれば、約4000人の全共闘学生に対し、体育会の学生たちはわずか300人で“互角”に渡り合っていた。そして体育会の学生のなかには、〈「大学の指示に従っているのだ」と公言していた学生もいた〉(同12日付夕刊)とも報じられている。ジャーナリストの伊藤博敏氏がいう。
「古田体制の頃、体育会の推薦入学枠を設定し、彼らには大学職員の採用にも優遇枠を作っていました。“金(推薦入学)と職(就職先)”を用意された体育会系の学生は、忠実に大学のために働いたのです」
この頃、日大の相撲部4年には、前年の学生横綱のタイトルを獲得していた“スター力士”がいた。それが田中氏である。