そして迎えた準々決勝。釜本の先制、勝ち越しの2ゴールなどで日本はフランスを3対1で下し、夢にまで見たベスト4進出を果たした。長沼監督はこう振り返った。
〈フランスのようにオフサイド・トラップを武器とするラインの浅いチームには、東南アジアで多くの経験をしているのでむずかしい相手ではなかった。ロングのクロスパスを通したのが成功した〉(スポーツニッポン・1968年10月22日)
日本は準決勝のハンガリー戦では0対5で大敗を喫し、地元・メキシコとの3位決定戦に回る。メキシコは数か月前の親善試合で0対4と完膚なきまでに打ちのめされた相手。だが、国際サッカー連盟の役員として日本の戦いぶりを見守っていたデットマール・クラマー氏は勝機を見出していた。
〈メキシコはあすグアダラハラから飛行機でこなくてはならないから疲れている。三位のチャンスはまだある〉(毎日新聞夕刊・1968年10月23日)
24日の3位決定戦では、釜本の2ゴールで2対0とメキシコ相手に勝利。試合後、長沼監督は銅メダル獲得の要因をこう語った。
〈グループ・リーグの3戦目、対スペイン戦からアステカスタジアムに居すわれたこと、などだ。スペイン戦を引分けに持込んだ作戦の成功も大きかった〉(朝日新聞夕刊・1968年10月25日)
最後の最後まで、予選リーグのスペイン戦の引き分けが大きく影響していたのだ。
メキシコ五輪の銅メダル獲得、ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜、そして残り1分でベルギーに勝ち越しを許してしまったロストフの悲劇──。経験値を重ねることで、サッカー日本代表は強くなっていく。